方 言

方言とは何か

 まずはじめに、「方言」というと、「地域ごとのことばの違い」ととらえられていますが、「方言」にもいくつか種類があります。私たちは一般的に、特に東京山の手の方言を基礎としたいわゆる「共通語」とは異なる、「その地域特有の語彙・音韻・文法の違い」を「方言」と呼んでいますが、日本語学の分野では、少し異なります。
 日本語学の分野では、地域特有のことばに着目した方言は「地域方言」と呼ばれ、この「地域方言」は、「地域ごとの語彙・音韻・文法の違い」をいいます。「共通語」と違った形のことばはもちろん「地域方言」ですが、「共通語」と同じかたちのことばも「地域方言」となります。そもそも「共通語」が山の手地方で用いられていたことばを基礎としているのですから、「共通語」のもととなった山手地方の方言も「地域方言」の一種といえます。このような考えから、国語の授業で教えられるような全国共通の規範的なことばは、「標準語」ではなく「共通語」と呼ばれます。国語の授業で教わることばが「標準」であるなら、地域方言は、「標準から外れたことば」と捉えられかねないからです。
 「地域方言」のほかには、「社会方言」というものもあります。これは、その人の職業や身分、性別、年齢などによって異なることばのことです。現代日本に暮らす私たちには想像しにくいですが、江戸時代には武士は武士らしいことば、遊女らしいことば(里言葉、廓言葉)など、特に職業(身分)によって言葉遣いが分けられていました。武士や遊女のことばには、その職業独特のことばを設けることによって、地域方言差による意思疎通の不便を解消するという目的があったようです。
 たとえば、時代劇でよく見られるように、武士は自分を表すことばにも「拙者」「某」「身ども」など武士特有の言葉遣いをしていました。ただ、これも時と場合によりけりだったようで、たとえばお白洲のような公的な場では武士特有の言葉遣いをしていましたが、日常生活ではいわゆる「べんらめえ」口調で話していたようです。この「時と場合によって」使い分けられることばのうち、公的な場で改まって用いられるのが「社会方言」です。また、性別の違いという点では、「女房詞」という主に宮中の女性が用いたことばの代表的なものに、物の下に「もじ」をつけて婉曲的に表した「もじ言葉」(杓子=しゃもじ、浴衣=ゆもじなど)、頭に「お」をつけることば(田楽=おでん、強飯=おこわ)などがありますが、これらも社会方言の一種といえるでしょう。もっとも、女房詞は江戸時代に町家の女性に広まり、現在では女性特有の言葉遣いという意識はなく、日常的に用いられています。年齢による言葉遣いの違いには、現在でも「おつむ」「おんぶ」などの幼児語があります。
 現代では、身分や職業による言葉遣いの違いは見られず、男性と女性の言葉遣いの違いは一人称の「俺」や「僕」、主に女性が用いる「~だわ」などがある程度で、「方言」といえばたいていは地域方言を指しています。
 この章でも、主に地域方言を「方言」として取り上げていきます。

方言の歴史概略

 方言(地域方言)とは「お国ことば」であり、語彙や音韻、語法の地域差をいうのですから、自分たちの住んでいる所と、自分たちの住んでいる場所とは遠い所とを対比したときに、「方言」の意識が生まれてくるということになります。交通が今より発達していない古代において、都に住んでいた人にとって地方の風俗は、特に不思議なものに思えたのでしょう。『万葉集』には「東歌」として、東国方言を交えた歌謡が収録されており、室町時代には「京へ筑紫に坂東さ」という諺が生まれるほど、人びとの方言意識は発達していました。
 さらに時代が下り江戸時代になると、参勤交代という制度ができ、地方の大名が定期的に江戸へのぼってくるようになりました。交通網も整備され、流通も発達し、人の往来も増えました。
 そのなかで、人びとの間に「地方意識」、更に「東西意識」が色濃く出てくるようになります。東西意識というのは、現在も残っている東日本・西日本の違い、さらに狭く関東と関西(おもに東京と大阪)の違いのことです。地質学上、日本には東日本と西日本を分ける大きな溝「フォッサマグナ」があり、フォッサマグナを越えての人びとの行き来が少なく、文化の交流がなかったことから、フォッサマグナの東側では東日本の文化が、西側では西日本の文化がそれぞれ育まれたと考えられています。それが現在の東日本・西日本という区分にもいまだに残っているといわれています。
 現在はマスメディアが発達し、テレビ、ラジオなどを通して、文化や情報を日本国内どこでも共有し、私たちは一つの国としての日本国民である自分を意識していますが、以前は違っていました。江戸時代までは、徳川幕府をいちおうの頂点としながらも、まだ「藩」という地方分権的な側面をもつ政治組織がありました。江戸時代は、現在よりもずっと、その人がどこの藩のどこの地方に生まれたか、ということを人びとが意識している時代でしたし、逆にいえば、自分が生まれ育った場所以外の地域についての興味が高まった時代でもありました。
 江戸時代は出版が盛んになった時代でもあり、さまざまな分野の本が出版されました。そのなかには当時の方言を生き生きと描いた本も出版されており、式亭三馬の『浮世風呂』では、上方(京都)出身の女性と江戸生まれの女性が、上方語と江戸語について論争する場面が見られます。『浮世風呂』は江戸に暮らす人びとの姿を活写した本で、江戸で用いられていた幼児語や女性特有の言葉遣いも描かれており、江戸語を研究するうえで非常に重要な資料となっています。それと同時に、『浮世風呂』の上方出身の女性と江戸生まれの女性との論争は、ことばを含めた文化の上で中心地であった上方と江戸とを比較し、論争が起きるほど、江戸の文化が台頭してきたことを示してもいます。
 じっさい、江戸時代前期は中世語の特徴が多く見られますが、十八世紀半ばを過ぎると江戸語が中央語となり、そのなかでも山の手で使用されていた東京語が現在の「共通語」の基礎となっていきました。
 さて、地域方言を別のことばで「お国ことば」といいます。そして、「お国ことば」という名の示す通り、方言は使用される地域の特色が出ることばでもあります。
 地域ごとの特色が重んじられてきた今でこそ、方言は懐かしく温かみのあるものとして愛されてきていますが、「訛る」ということばからも察せられるように、かつての方言は悪い印象をもたれていました。特に日本が近代国家へと変化し始めた明治時代には、西欧と比較して日本の国語・国字に難点があるとして、日本語を改革する必要性が叫ばれるようになりました。近代文学史では必ず尾崎紅葉・二葉亭四迷・夏目漱石を学びますが、彼らが近代文学史において重要な位置を占めている主な理由の一つは、彼らがその著作において言文一致(書きことばと話しことばの統一)を試みたためです。それまでの日本は、書かれていることばと話すことばが異なっており、さらに話しことばも地方によってさまざまでした。
 明治維新の最大の目的は、アジアを植民地化していた西欧列強に対抗しうる、近代的な統一国家を形成することにありました。そして統一国家形成のために、「方言撲滅」「標準語確立」が叫ばれるようになりました。まず、国民の話しているバラバラなことばを「標準語」として統一しようというわけです。明治期には、他にも、国字に関する改革案として漢字全廃論やローマ字運動が起こり、これが当用漢字・教育漢字及び現代かな遣い制定へとつながっていきました。国語に関する改革案としては、言文一致運動が起こり、戦後は特に共通語確立への関心が深まっていきました。
 注目されるのは、統一国家形成のために、「国語」も統一されるべき、と考えられていたことです。明治に入り、中央集権制へと移行するなかで、政治も、そして言語も、政府の指導のもとに統一されていったということです。明治維新は成功し、日本はアジアでいち早く近代国家としての道を歩み始めました。とはいえ、その一方で、日本では古いものや日本的なもの(地方色豊かな方言も含まれます)を否定する価値観が広まり、脱亜入欧、引き続き欧米を模範とした帝国主義へと突入していったのです……。

古語は方言に残る

 一般に「古語」というと、『源氏物語』や『枕草子』に見られる平安時代の貴族階級が用いていたことばが想起されがちですが、広い意味での古くからある日本語――奈良時代から用いられていたことばや、庶民が用いていたことば――「やまとことば」について興味を持ったときに、私の目の前にあったのは「方言」でした。
 地域ごとのことばの違いはすでに『万葉集』の防人歌などに見られますが、「すべて田舎には、いにしへの言の残れること多し」(本居宣長『玉勝間』)という記述があるように、江戸時代には、古語が形を変え、方言として残っているということが知られていました。
 では、なぜ古語が方言として残っているのでしょうか。
 ことばは文化です。文化なので、流行り廃りもあります。かつて文化の発信地であった京(京都)で新しく生まれたことばは、まず近隣に伝わります。近隣でも流行ると、そのことばはさらに周囲にもたらされます。京都から発信されたことばなら、東海道や中山道といった陸路もありますし、船で琵琶湖の対岸へもたらされることもあるでしょうし、海路もあります。そうやって、ことばは、少しずつ遠くへ、遠くへと広がっていきます(このように、ことばが同心円状に各地へ広まっていったことは、柳田国男の『蝸牛考』で証明されています)。つまり、遠い地域になればなるほどその伝達は(時期的に)遅くなりますが、それと同時に新しいことばが流入するのも遅いため、京で失われた古いことばが方言として残っている場合が多いということになります。それどころか、すでに意味が分からなくなった古語が方言として残っていて、そこからその古語の意味を推測できた、ということさえあります。
 たとえば、「地震」ということばがあります。地震大国と呼ばれるほど、日本人は昔から地震と深く関わって生きてきました。ただ、「地震」ということばは漢字の音読みで、古く地震は「なゐ」といいました。共通語では地震は「地震」といいますが、現在でも、九州・沖縄地方では、地震のことを古語「なゐ」に近いナエ・ナイ・ネーということばで呼ぶ地域がありますし、大きな揺れをジシン、小さな揺れをナイと呼ぶ地域もあるようです。余談ですが、「なゐ」の「な」は大地の意、「ゐ」は「居」と同じで、地震はほんらい「なゐふる」「なゐよる」(ふる、よるとも「震える」の意)と呼ばれていたのですが、「ふる」「よる」が脱落して「なゐ」となったとされています。「なゐ」ということばを現代の私たちが聞いても意味が分かりませんが、方言と照らし合わせることによって、「なゐ」が現在でいう「地震」の意であるのだと分かるようになったのです。
 京(京都)から物理的な距離が離れた九州・沖縄地方のほか、東北地方の方言にも、古語が多く残っているといわれます。たとえば、東北地方の方言として有名な「めんこい」は、古語「めぐし」(可愛いの意)からきていることばで、『万葉集』にも「愛おしい、可愛らしい」のほか、「かわいそうだ、いたわしい」の意味で用いられています。
 とはいえ、古語が残っているから、東北の方言が素晴らしいわけではありません。「めんこい」はもとは「めぐし」と深く関連のある語ですが、「めんこい」ということばは東北の地に深く根ざし、ただ「めんこい」と言うだけで、共通語の「可愛い」では言い表せない思いを伝えることができるのです。ほんらい自分たちのことばではない「めぐし」を、自分たちにしかないことばとして変化させる――。それが、古語が変化していった方言の、面白さでもあります。
 なお、東北と京は物理的な距離が離れているということのほかに、東北には京に対抗しうる独自の発達した文化があったため、ことばの流入も遅れたのではないか、とも考えられています。東北にはアイヌ語と関わりの深い地名が多く見られていることから、古代東北にはアイヌと関係の深い人びとが住んでおり、大和朝廷によって蝦夷が征服されるまでは、東北地方には大和朝廷とは別の文化圏がかたちづくられていたようです。
 そこにどのような人が住んでいるのか、また、その人たちはどこの地域の人びとと交流があるのか。文化的な条件のほか、地理的な条件は、方言をかたちづくるうえでひじょうに重要な位置を占めているのです。

方言から分かる人びとの暮らし ※NEW

 前章で地名について取り扱い、地名が「その場所がどういう場所なのか」を示しているだけでなく、その場所に暮らしていた人びとが、どのような考えでその名前をその場所に名づけたのかという、いわば「そこに暮らしていた人びとの心」までも示しているのだと書きました。
 ただ、その場所が「どのような場所」であるのかを教えてくれることばは、地名以外にもたくさんあります。たとえば、動植物の方言です。福島県の郷土玩具として有名な「赤べこ」といえば牛ですが、福島県では子牛の呼び名が「コウシ」、「ウシノコ」、「ベコッコ」、「コッコベコ(コベコ)」、「ト(ー)ザイ」、「ト(ー)ネッコ」など複数あります。面白いことに、「牛」そのものを表すことばは、北海道・東北が二つ(ウシ・ベコ)、そのほかは茨城県・山梨県・鹿児島県などいくつかの県を除き、すべて「ウシ」のみでした。このことから、北海道や東北は牛と関わりが深い地域であるため、その対象(ここでは、牛)の呼び名が複数あるのだ、と考えることができるのです。ほかにも、沖縄のように四方を海に囲まれた場所では、水深や遠近に合わせて、「海」の場所を表す方言が数多くあるなど、人びとの暮らしと方言とは密接に関わりあっているのです。
 人が生きていくうえで欠かせない「食べ物」にまつわることばにも、興味深いものが多くあります。以前、食べ物を表すことばについて調べていたときに、私がとくに興味深いなと感じたのは、イモに関することばでした。イモといっても数多くありますが、特に興味深かったものは甘藷でした。
 甘藷は、中国・琉球から薩摩へ入り、日本各地へ広まっていったという経緯をもつ植物です。そこで、甘藷のことを、西日本では唐(中国)から輸入されたカライモ・トーイモと呼び、近畿地方では琉球から広まったリューキューイモと呼び、関東では薩摩から伝わったサツマイモ、と呼んでいるのです。広まった経路がことばに反映しているのです。
 そもそも、単に「イモ」といったとき、それが馬鈴薯を指すのか甘藷を指すのか、それとも山芋を指すのか里芋を指すのかさえ、地域ごとに違っています。単に「イモ」といったときにそれが〈山芋〉を指す地域は、岩手・秋田・福島・長野・岐阜・広島の一部地域で、それ以外の東北・長野では「イモ」は馬鈴薯を指す地域が多数、岐阜では里芋を指す地域が多数、広島では甘藷を指す地域が多数、となっています。関東で「イモ」といえば〈里芋〉もしくは〈甘藷〉が多く、近畿地方は甘藷が多いながらも三重・和歌山と、和歌山に接する大阪では里芋を意味する地域が一部にあり、中国・四国地方はほぼ甘藷、九州地方では里芋が優勢で、甘藷が並存しています。北海道では馬鈴薯を意味する地域がほとんどで、甘藷を意味する地域も一部にあり、沖縄に関しては、「イモ」は全域で甘藷を意味するという結果が出ています。もっとも、マスメディアの普及や通信技術の発達により、単に「イモ」といったときにそれがどのイモを指すのか、時代によって少しずつ変化してきています。
 先述したように、甘藷と馬鈴薯の名前に原産地や経由してきた土地の名前が入っているのに対し、山芋と里芋が冠するのは単に「山」や「里」です。山芋と里芋はともに日本に古くからある芋ですが、それぞれ「山」の芋と「里」の芋であることが大きな違いです。なぜなら、「山」は人の入らない場所であるのに対し、「里」は人の暮らしている場所だからです。「山」の芋はおそらく自生していたのに対し、「里」の芋は人間が意志を持って、生活圏内で栽培していたと考えられます。
 芋が一種類しかなれば、「山芋」「里芋」のように分ける必要はありません。かつて日本で芋といえば自生している山芋であったものが、新しく自分たちの里で栽培できる芋が登場したために、その芋を「里芋」と名づけたのだと考えられます。前章で述べましたが、山は「他界」なので、人が暮らす「里」と、他界の「山」とはいわば対立概念なのです。二つしかないものは対照的に考えられます。
 ちなみに、平安時代に編まれた辞書『倭名類聚鈔』によれば、里芋の古名は「家つ芋」となっており、そこから人家で栽培される芋という意味合いをより強くうかがうことができます(遅くとも一六世紀末には、サトイモの名が現れています)。方言では、里芋はタイモ、ハタイモ、ツチイモ、マイモ、ホンイモ、ト(ーノ)イモ、カ(ラ)イモなどと呼ばれています。タイモ、ハタイモからはまた栽培されているという意味合いがうかがえますが、マイモやホンイモは、後に渡来してきた甘藷や馬鈴薯に対する名前でしょうか。ト(ーノ)イモやカ(ラ)イモからも、甘藷や馬鈴薯同様、里芋の経緯をうかがうことができそうです。
 それぞれのイモについて見てみると、山芋はもともとアジア東部の温帯から暖帯に分布しているので、おそらく日本に古くから自生していたと考えられます。じっさい、「イモ」が里芋を表す地域が点在しているということは、かつてイモ=山芋であったものが、渡来した他のイモによってイモが多様化した結果、一部地域でのみイモ=山芋という認識が残ったのだと考えられます。
 一方、里芋も日本に古くからありますが、原産地は熱帯アジアとされており、おそらく外国から渡来したものと考えられます。甘藷に関しては先に述べた通りで、馬鈴薯は「ジャガイモ」(ジャガタライモ。インドネシアのジャカルタ(古名をジャガタラといいます)から渡来したことに由来)という名前からも分かるように、ほんらいは日本にない種類のイモでした(原産地はアンデス)。辞書では甘藷は「サツマイモ」、馬鈴薯は「ジャガイモ」で引くことができますが、どちらも地方によって呼び名が異なり、馬鈴薯をカライモ(主に九州地方でいう甘藷でもあります)と呼ぶ地域や、オランダイモと呼ぶ地域も一部にあります(長崎など)。九州地方、とりわけ琉球貿易で琉球・中国と結びつきの深かった薩摩藩や、江戸時代、出島によって海外に開かれていた長崎の政治的・地理的状況が、語彙にも反映されているのです。

 以上、日本で代表的なイモである甘藷・馬鈴薯・里芋について述べてきました。〈ヤマイモ〉は日本特産で、もともと日本で自生していた芋ですが、イモを意味する語彙としては劣勢にあります。とはいえ、一部地域に点在しているということから、古い時代にはイモの代表的存在であったヤマイモが、時代の流れとともに他のイモに押されていったのだということが分かります。〈サトイモ〉はその名から〈ヤマイモ〉に対する存在であり、食用のため里で栽培されてきた古いイモだということが分かります。
 馬鈴薯と甘藷は文献に残っているため判明していますが、馬鈴薯は一六世紀末に観賞用として日本に伝わり、明治以降にアメリカから優良品種が持ち込まれて普及しました。甘藷も同じく江戸時代に渡来しましたが、その経路が中国・琉球・薩摩を経ていたのは、甘藷を意味する方言から分かる通りです。甘藷といえば儒者・蘭学者であった青木昆陽(一六九八─一七六九)が救荒作物として普及につとめたのも、よく知られています。
 このように、イモは生育地域や伝来経路といった地理的な条件がその名前に反映されていますが、弥生時代に日本に伝わって以来、日本の食文化の中心となった「お米」にまつわる語彙を調べてみると、また違った名づけの側面、名づけの精神ともいうべきものが見えてきます。

……続きます……

はじめに
ことのは
わのこと
そざい