名 前

 人びとが、「ことばには霊力がある」と最も強く感じていたのは、いつのことでしょうか。それは、漢字という「文字」が日本に入ってくる前、物語が口伝えされていた時代――文学史の分類でいう「上代」でした。
 上代とは、おおよそ奈良時代までのことをいい、歴史書として位置づけられる『古事記』『日本書紀』や歌集『万葉集』などが、この時代の文学作品の代表とされています。いずれの作品も「文字」が入ってきた後に編纂されましたので、後世の人びとがそれを筆写し、筆写された本(写本)が現在に伝わっているのですが、『古事記』『日本書紀』に載せられた神話は、もともとは口から口に伝えられているものでした。ちなみに、アイヌのユーカラや古代ヨーロッパのケルト神話、北欧のエッダなども同じく、もとは口伝えにされてきた神話です。
 このように、文字を使わず、口伝えに伝承されたこのような文芸は「口承文芸」と呼ばれます。いまでは筆録され、本になっている昔話や伝説も、もともとはこの口承文芸でした。
 『古事記』序文には、「記憶力が非常に優れた稗田阿礼に、天皇の系譜と古い神話・伝承を誦習させ、それを太安万侶が筆録したのだ」と書かれています。文字がまだなかった時代、神話や伝承は、記憶力の優れた人が覚え、それを口伝えにしていったのですが、語り手の記憶違いや伝える人の伝え間違い、伝承者の死によって伝承が失われるなどの問題がありました。
 中国から日本へと伝わってきた「文字」は、それらの問題をある程度解消してくれるものであると同時に、目に見えない「ことば」に形を与え、「ことば」に永続性を与えるものでもありました。

 さて、「文字」というものが日本に伝わり、浸透してきても、「声に出した『言』が『事』と成る」という言霊信仰が完全に失われたわけではありません。冒頭で触れた「忌み言葉」は、それと意識されることは少ないながらも、現在でも用いられています。なかでも特に、明治時代までずっと、言霊信仰に基づいて制約されてきたものがあります。それは何かというと、「人の名前」、です。
 名前というものは、とても大切なものです。それが神様の名前でも、人の名前でも、動植物の名前でも、場所につけられた名前でも、みな深い意味をもっています。
 「名は体を表す」といいますが、神様の名前を調べれば、その神様の性質や性格が見え、動植物の名前を調べれば、その動植物の性質や、彼らのたどってきた歴史が見えてきます。「地名」とはその名の通り、その場所がどのような場所なのかを表す場所の名前です。
 「人の名前」は、昔も今も変わらず、親御さんが子どもの健やかな成長、幸福な未来を願ってつけるものです。名前とは、ほんらい「ものとものとを分別するためにつける」ものですが、単にそればかりではなく、命名した人の想いや願いをも反映するものです。また、それ以外にも、名前がその人の運命を決めてしまう、ということが、物語などではよく見られます。
 たとえば、曲亭馬琴『南総里見八犬伝』に登場する伏姫。三伏(夏の酷暑の期間)に生まれた伏姫は、その名の「伏」という字が「人にして犬に従う」であることから、八房という犬と結婚するという運命を背負うのですが、このことが八犬士誕生へとつながっていきます。また、八犬士は全員姓に「犬」が入り、名に仁義八行を表す一字が入る(たとえば、「孝」の珠をもつのが犬塚信乃戍孝)のですが、八犬士筆頭の「仁」の珠を持つ犬江親兵衛仁の父親の名が「房八」(八房の逆)、母親が「ぬい」(「いぬ」の逆)であったりと、登場人物やその家族まで、考えて命名をされています。このように、創作された登場人物の名前が、その人物の性格や出自・役割を端的に表しているという例はよくありますが、これは「名前によってその人の人生が決められる」という考えがあることを意味していると考えられます。
 なお、本章では、「神様の名前」と「人の名前」について取り上げています。「神様の名前」について取り上げたのは、神様の名前について知ることが、「日本の神話」を考えるうえでとても重要な手がかりになるからです。
 科学の発達していない時代、人びとは、さまざまな事象の説明を、神話や神様に求めました。たとえば、なぜ毎日昼と夜が繰り返すのか、なぜ人が毎日生まれ、そして死んでゆくのか、人の寿命はなぜ短いのかを、神話は説明しています。
 神話とは、文学の始まりであると同時に、ことばの生み出した最大の遺産ともいわれています。それでは、一般的に日本の神話と同一視される『古事記』『日本書紀』には、どのような神様が登場し、人びとはその神様を、どのような神様だと考えていたのでしょうか。次から見ていくことにします。

神様の名前

 日本の神様というと、「八百万」と表現されるように、数多くの神様がいらっしゃいますが、日本で誰もが御存知なのは、天照大神(あまてらすおおみかみ)でしょうか。
 天照大神(以下、アマテラスと表記します)は、『古事記』『日本書紀』で最高の神様とされています。一般に太陽神、女神として知られていますが、多様な性質をもった神様でもあります。
 というのは、アマテラスの名前について、『古事記』では「天照大御神」と記されていますが、『日本書紀』では「天照大神」のほか、「大日孁貴」(おおひるめのむち)「天照大日孁尊」(あまてらすおおひるめのみこと)などの名前も記されているからです。これは一体、どういうことなのでしょうか。
 アマテラスの名前について説明する前に、日本の神様の名前にある、いくつかの法則を説明しましょう。

神様の名前の法則

 『古事記』『日本書紀』に登場する神様の名前には、現代に暮らす私たちにはあまり馴染みのない、ある独特の尊称がつけられています。
 その尊称とは、「~ノミコト」というものです。たとえば『日本書紀』では、アマテラスの父神であるイザナキは「伊奘諾尊」、アマテラスの弟であるスサノヲは「素戔嗚尊」と記されています。「尊」というのは、神様や、貴人につけられる尊称なのです。
 ただ、この「~ノミコト」という尊称には二つ種類があり、使い分けられています。漢字で表すと、「命」と「尊」の二種類で、この二種類の使い分けに関しては、『日本書紀』に「至貴曰尊 自餘曰命」とあります。つまり、『日本書紀』では、神様にはふつう「命」の尊称をつけますが、より尊い神様にだけ「尊」の尊称をつけているというのです。
 じっさいに見てみると、「尊」という尊称は、高天原の神様のなかでも、アマテラスの両親とされるイザナキ・イザナミ、弟であるツクヨミ・スサノヲなどにのみ用いられています。もっとも、以上の規則は『日本書紀』には適用されていますが、『古事記』には適用されていません。『古事記』では、イザナキもイザナミも、ツクヨミもスサノヲも、みないちように「命」という尊称をつけられています。
 「~ノミコト」のほかの尊称には、「~ノムチ」があります。先述したアマテラスの別名「大日孁貴」についている「貴」がそれです。
 この「~ノムチ」がつけられている神様は、アマテラスと、出雲地方(現在の島根県)の神様・大国主神(おおくにぬしのかみ。以下、オオクニヌシと表記します)の別名である「大己貴命」しかありません。鎌倉末期に成立した『日本書紀』の注釈書『釈日本紀』には、「蓋古者、謂尊貴者、為武智歟。自余諸神、或謂之尊、或謂之命。今天照大神、是諸神之最貴也、故云武智。」とあり、古くは「~ノムチ」が最も尊い神様にしかつけられない尊称であった、とされています。逆にいえば、オオクニヌシ(=大己貴命)は、アマテラスと同じように、古くは最も尊い神様とされていたのだということができます。

成り立ちが複雑な記・紀神話

 それにしても、「~ノムチ」という尊称が最も尊い神様にしかつけられないなら、なぜ出雲地方の神様であるオオクニヌシの別名に「~ノムチ」が使われているのかという疑問が出てきます。なぜでしょうか。
 そもそも『古事記』は、「歴史書や伝承に誤りや乱れがあり、それを正すため」に天武天皇が企画し、編纂されたのだと記されています。いっぽう、『日本書紀』成立の動機については明記されていませんが、その書名が『日本書紀』であることから、日本が手本としていた中国の『隋書』や『漢書』のような「公的な歴史書(正史)」として編纂されたのだと考えられます(事実、『古事記』が大和言葉を用いて書かれているのに対し、『日本書紀』は漢文調で書かれており、中国を意識したうえで書かれた歴史書だと考えられています)。また、『日本書紀』の「紀」は、中国で帝王の治世を編年体(起こった出来事を年代順に記してゆく方法)でしたためたものを「紀」と呼ぶことから、それにならって、「日本の正史であり、かつ、日本の帝の治世を記した歴史書」として編まれたものと考えられます。
 つまり、『古事記』『日本書紀』は、ともに国家の事業として朝廷が編纂した歴史書であり、朝廷に伝わる神話と別系統の神話は「乱れ」として削除・改編され、朝廷にとって都合の悪い神話も「誤り」として正されたのだ、という見方をすることができるのです。
 現代では「日本神話」とひとくくりにされてしまいがちですが、民話や伝承と同じように、かつては色々な地域に、地方色豊かな神話が存在していました。『古事記』『日本書紀』に載せられている神話は、あくまでも「宮廷神話」として体裁良く整えられた、大和朝廷の神話なのです。
 それでは、大和朝廷の神話ではない地方神話はどうなってしまったかというと、これらは残念ながら、現代に伝わることなく消えてしまったものが数多くあると考えられています。ただ、出雲地方の神話は『出雲国風土記』に残されていて、『出雲国風土記』に見られる神話では、オオクニヌシは天地を創造した、最も尊い神様とされているのです。
 ちなみに「出雲」といえば、近年パワースポットとして有名な「出雲大社」がある場所ですが、この出雲大社に祀られている神様がオオクニヌシです。この神様の祖先(または、父親)が、アマテラスの弟であるスサノヲとされています。『古事記』『日本書紀』では、オオクニヌシは、自分の祖先の姉であるアマテラスとその孫(天孫)ホノニニギに、出雲国の統治権を譲る、という話の流れになっています。逆に言えば、ほんらい別系統の神話であるアマテラスとスサノヲを『古事記』『日本書紀』が姉弟としたことによって、弟・スサノヲとその子孫オオクニヌシが、姉・アマテラスとその孫(天孫)ホノニニギに出雲の統治権を譲るのが正当である、という流れにしてしまっているのです。
 さて、先に述べたように、出雲地方で最も尊い神様・オオクニヌシには、別名が数多くあります。『古事記』『日本書紀』にもその名残は残っていて、たとえば前項で述べた「大己貴命(『古事記』では「大穴牟遅神」。以下( )内は『古事記』における神名表記です)」、「大物主神」、「葦原醜男(葦原色許男神)」、「八千戈神(八千矛神)」、「大国玉神」、「顕国玉神(宇都志国玉神)」など、『古事記』では五つ、『日本書紀』では七つの別名をもつ神様なのです。オオクニヌシがこのようにいくつもの別名をもっているということは、ほんらいは別の伝承や劇の主人公の名前であったものが、一柱の神様の性質として結びつけられたためだと考えられています。
 余談ですが、日本の神様にはオオクニヌシのように名前が複数あり、またその表記も複数あります(『古事記』では、アマテラスの弟・スサノヲは、「須佐之男命」と書かれていますが、『日本書紀』では「素戔嗚尊」などと書かれています)。なので、論文などで名前や表記は違うけれども同じ神様を表すときには、「アマテラス」「スサノヲ」などのように、片仮名で表記します。

「天照大神」という神名

 ここでアマテラスに話を戻しましょう。
 アマテラスにもオオクニヌシ同様、いくつかの別名がありますが、オオクニヌシのように、「色々な神様が一つになった」と単純に言い切れない部分があります。というのは、『日本書紀』に次のようにあるからです。

是に、共に日の神を生みまつります。大日孁貴と号す。大日孁貴、此をば於保比屢咩能武智と云ふ。一書に云はく、天照大神といふ。一書に云はく、天照大日孁尊といふ。

 この記述に従うと、太陽神・大日孁貴の別名が天照大神や天照大日孁尊である、ということになります。つまり、アマテラスのほんらいの名は「オオヒルメノムチ」であった、ととらえることができるのです。
 アマテラスの名前やその性質については、すでにさまざまな研究がなされているのですが、異伝を載せた『日本書紀』にはアマテラスの神名が複数記載されているのに対し、話が一本の流れにまとめられている『古事記』にはアマテラスの神名が「天照大御神」で統一されていること、『皇太神宮儀式帳』など朝廷へ注進された(政治的な面をもつ)資料のなかでは天照大神の神名が統一的に用いられていたことなどから、現在では、アマテラスの古い名は「ヒルメ」だったのだと考えられています。ただ、この「ヒルメ」という名前についても、「メ」を妻ととらえ、「太陽の妻」、すなわちかつての男性太陽神に代わり、その神妻(巫女)であったヒルメが太陽神となったのだとする説、「メ」を「女」ととらえ、太陽神はそもそも女性であったとする説などがあります。
 それでは「天照大神」という名前は、どのような名前なのでしょうか。「この名前は、太陽神を意味しているのだ」とおっしゃる方もいらっしゃるでしょう。
 確かに、「アマテル(天照る)」とは、「大空にあって照る」という意味です。「ス」は尊敬の助動詞なので、「アマテラス」とは「大空にあって照り輝いていらっしゃる」という意味。そこで、アマテラスオオミカミとは、「大空にあって照り輝いていらっしゃる偉大な神様」というような意味になります。つまり、アマテラスオオミカミの名前の核は、「偉大な神様」を意味するオオミカミなのです。アマテラスの古い名「ヒルメ」がはっきりと太陽を示しているのに対し、「アマテラスオオミカミ」はその核を「オオミカミ」としているのです。それでは、オオミカミとは一体どのような神様を指すのでしょう。
 『古事記』において「大神」(オオカミ)の尊称をつけられている神様には、黄泉の国と現世との間にある黄泉平坂で二つの世界を分断する千引石(ちびきのいわ。千人がかりで動く岩)を「道反之大神(ちがえしのおおかみ)」「塞坐黄泉戸大神(さやりますよもつとのおおかみ)」と呼んでいる例がありますが、イザナキ・イザナミ・スサノヲも、「大神」の尊称をつけて呼ばれています。イザナキは黄泉の国から帰ってきた後にその神名に「大神」を付されて呼ばれていますし、スサノヲは後に黄泉の国を治め、子孫・オオクニヌシに試練を与える際に「大神」を神名に付されて呼ばれています。つまり、もともと特別な神が何かを成し遂げた結果、より偉大な神になったさいに「大神」という神名を付されているのではないかと考えられるのです。
 そう考えると、アマテラスはその神名の中核が偉大な神「大神」であるという、初めから特別な神として神話の中にその役割を与えられている神なのだということができるでしょう。

神様の名前・おわりに

 神様の名前について、主にアマテラスを中心に見てきました。
 私事で恐縮ですが、私が上代文学を勉強して知った最も大きなことは、「日本神話=記・紀神話ではない」ということです。それは『風土記』に記されている各地の神話と記・紀とを比較しても分かりますし、神名の変遷からも知ることができます。特に神話や伝説、物語で用いられる「名前」は、その人物・神様の性質を示していますし、多くの人が親しんできた神様の名前ですから、支配者が代わっても、そうやすやすと変えられないはずです(これは特に「名前」でも、地名についていえることですが)。
 はるか昔、今は日本と呼ばれるこの国には、蝦夷や隼人という民族がありました。彼らは大和朝廷に服属し、今ではその文化の名残はほとんど残されていません。彼ら大和朝廷に従わなかった人びとは、「まつろわぬ民」であり、『平家物語』などに登場する妖怪・土蜘蛛も、もとはそのような化外の民でした。
 かつて日本は一つではなく、多くの信仰があり、多くの文化があり、多くの神話があり、多くの神様がいらっしゃいました。それが、いつしか「まつろわぬ民」たちが大和朝廷に服属していくなかで、多くの神話は一本の筋にまとめられていきました。
 神様の名前、そして神様の織りなす神話は、そのような歴史をも写し出しているのです。

人の名前

 神様の名前に限らず、人の名前も物の名前も、名前の多くは他の人・物との弁別のために付けられます。人の名前は、古くは個人を特定するというよりは、その人がどの親族集団に属するか、ということに重きが置かれていたようで、決まったいくつかの名前から新しく生まれてくる子どもの名前をつける、という方法が世界各地で見られます。親族集団に代々伝わる名前を付けるということは、かつて同じ名前をつけられた祖先の霊魂を名前とともに引き継ぐ、という意味合いもありました。祖父母の名前を新しく生まれてきた赤ちゃんにつけるということは、その赤ちゃんが祖父母の生まれ変わりということを意味するのと同時に、その赤ちゃんが立派であった祖父母のように育ってくれることを期待されているのだということもできます。この「どの親族集団に属するか」を重視する名前の付け方は、後述する「男性の名前」の通字や系字などにも受け継がれています。
 現代の日本では、赤ちゃんが生まれて一四日以内(国外で出生があったときは三か月以内)に出生届を届け出ることになっています。そして、この出生届とともに、赤ちゃんの名前も定められます。
 ただ、日本では平安時代から、赤ちゃんが生まれて七日目に「お七夜」というお祝いをするのが習わしとなっていて、このとき「命名式」という儀式が行われます。命名式とは、赤ちゃんの親御さんや家族、親戚が、生まれた赤ちゃんの健やかな成長を願って名前をつけるための儀式です。と同時に、命名式は、赤ちゃんに名前が付けられることによって、赤ちゃんが共同体の仲間入りを果たしたことを意味する儀式でもあります。
 死亡率の高かった時代、子どもは「七つまでは神のうち」といわれていました。子どもは早くに亡くなってしまうことが多かったため、七歳まではまだこの世の人間ではなく、神の世に近い存在と考えられていたのです。「通りゃんせ」という歌で、子どもが七つのお祝いに天神様にお参りするのは、子どもが七歳を迎え、ようやく人間としてこの世界に完全に定着したことをお祝いするためです。そして、逆にいえば子どもは七歳を迎え、もはや神に近い存在ではなくなってしまったので、「通りゃんせ」で行きはまだ神の内だから良いけれども、人間としてこの世に定着してしまった帰りは怖い、と歌われているのです。
 日本で赤ちゃんが生まれて七日目に命名式が行われるのは、七日という一区切りを過ぎ、赤ちゃんが名前を付けられ、この世の人間として定着した、ということでもあります。逆にいえば、名前を付けるということは、その赤ちゃんがこの世に存在しているということになり、魔物に狙われてしまうことにもなります。そのため、魔物に狙われないように、ある一定の年齢になるまでは赤ちゃんに名前を付けなかったり、逆に魔物が嫌いそうな名前をつける風習もあるようです。
 たとえば、アイヌの人びとは、生まれたばかりの赤ちゃんに「テイネプ」(べちゃべちゃ濡れているもの)、赤ちゃんが座れるようになると「ションタク」(糞の塊)などと名づけていたようです。これは、「赤ちゃんに良い名前を付けると、赤ちゃんが魔物にさらわれてしまう」ことから、魔物を避けるためにわざと汚い名前を付けているのだそうです。このように、赤ちゃんにわざと悪い名前をつける風習は、モンゴルなどでも見られますし、タイでは現在でも人の名前を呼ぶときは、本名ではなく愛称で呼ぶのが一般的なようです。そのくらい、名前というものはその人の人生や運命と関わる大切なものだと考えられているのです。
 ちなみに、日本本土でも、かつて日本男児の名前の代表とされた「太郎」とは、もとは単に「長男」という意味で、特定の個人を示す名前ではなかったようです。ある里で「○○さんの家の太郎」といえば○○さんの家の長兄を意味しており、この場合、「太郎」というのは名前ではなく「長男」という意味で、本名を呼ばれることは、ほとんどなかったようです。

女性の名前

 平安時代以降、和歌は貴族のたしなみとなり、男女が思いを交わすために用いられるようになりましたが、『万葉集』にも有名な求婚歌がいくつか載せられています。

籠もよ み籠持ち 掘串もよ み掘串持ち この岡に 菜摘ます児 家告らせ 名告らさね そらみつ大和の国は おしなべて われこそ居れ しきなべて われこそ座せ われこそは 告らめ 家をも名をも
(『万葉集』第一巻)

 上の歌は、『万葉集』巻頭に載せられている、雄略天皇の詠歌です。「児」は男から愛する女性に語りかける呼び方を表しており、ここでは若い娘に対して用いられています。つまりこの歌は、雄略天皇が、菜を摘む若い娘に家と名とを尋ねている場面で詠まれた歌なのですが、求婚歌として知られています。というのも、古代、女性に名を訊くということは、求婚の行為であったためです。
 かつて、「名前とは、その人の魂そのものである」という考えがあり、その人の本名を呼ぶことを憚っていました。その人の魂そのものである名前を他者が呼ぶことで、その人自身を支配できてしまう、と考えられたためです。この考えも言霊信仰の一つで、「実名敬避」と呼ばれています。
 とくに女性は、かつてはその女性本人と親、女性の夫以外は、その本名を知りませんでした。平安時代に生きた女性作家・歌人である紫式部、同時代の女性文学者・清少納言も、本名は不明です。紫式部という呼び名は、『源氏物語』の女主人公「紫の上」と、彼女の父親の官位である「式部丞」からついたとする説が有力です。清少納言も、清原氏出身であることと、宮中での呼称「少納言」からついた呼称であるとされています。
 そういえば、後に女官や遊女の呼び名を「源氏名」と呼ぶようになりますが、『源氏物語』作中の桐壺・藤壺・紫の上なども、本名ではありません。
 戦国時代も高貴な身分の女性は、本名で呼ばれることはありませんでした。多くは「その人が住んでいる場所」で呼ばれ、代表例は豊臣秀吉の側室であった「淀殿」でしょう。幼名を茶々といった彼女は、淀城に住んだことから「淀殿」と呼ばれました。余談ですが、淀殿は徳川氏が政権を握った江戸時代には「淀殿」ではなく、「淀君」と呼ばれました。「~君」とは遊女を呼ぶのと同じ呼び方で、幕府の心情を慮って「殿」ではなく「君」を用いたと考えられています。ちなみに、「淀殿」という呼び名で知られる彼女ですが、後に大坂城二の丸に移り「二の丸殿」、伏見城の西の丸に移り「西の丸殿」などと、住んだ場所に応じて呼び名を変えられたそうです。徳川家康の側室・阿茶局などに代表される「~の局」という呼び方も、その人が住んでいた居室からとられた呼び名で、こちらも住んでいた場所からその呼称が生まれたようです。
 『源氏物語』で、女御や更衣が自分の住む住居の名で呼ばれていたことと考え合わせると、身分の高貴な女性は、住んでいた場所にちなんで呼称をつけられる、というのが一つの習わしであったようです。余談ですが、現在敬称として用いられる「様」は、もとは場所や方向を表すことばでしたが、時代が下って人の名前につく敬称となった、といわれています。場所と敬称とは、古くから結びついているのかもしれません。
 さて、時代は下り、江戸時代。このころになると資料が増え、上流階級以外の人びとの名前がどのようなものであったのかを知る手がかりも増えます。
 歌舞伎と並ぶ江戸文化の発信地といわれた吉原や京都嶋原で用いられ、現在も用いられている「源氏名」は遊女が『源氏物語』五十四帖の巻名になぞえて名前をつけるもので、妓楼に代々伝わる名前でした。『源氏物語』の巻名だけでは数が限られるので、それぞれ風雅な名前をつけられる場合もありました。
 一方で、江戸深川の辰巳芸者は源氏名ではなく「権兵衛名」というものを用いました。権兵衛名は男名で、辰巳芸者が男名を用いたのは、男芸者を偽装して、幕府の遊里への捜査の目をごまかす狙いがあったためだとか。
 宿場女郎などは一般市井と同じく「おの字名」で呼ばれたそうです。「おの字名」とは、たとえば「お七」「お仙」など、「お○○」という呼び方のことをいいます。
 一般市井の女性はこの「おの字名」を用いていますが、大奥では将軍の側室以上でなければこの「おの字名」で呼ぶことはできなかったそうです。

男性の名前

 ここまで女性の名についてばかりで、男性の名については全く触れてきませんでした。
 男性の名前は、女性よりははるかに資料に残されています。が、女性と同様、「実名敬避」の考えはありました。
 たとえば、戦国時代。戦国武将は、名のある武将の名前の一文字を子孫たちが用いることが多くありました。これは、代々同じ文字を使うことによって、その家系が由緒ある家柄や血統にあるのだということを示そうとしたためといわれています。この文字を「通字」といい、たとえば織田氏なら「信」(織田信長、信長の父親「信秀」、信長の長男「信忠」、など)、徳川氏なら「家」、武田氏なら「信」、上杉氏なら「景」などが、それぞれの通字でした。また、摂関政治で有名な藤原家のように、道隆・道綱・道長と兄弟で名前の共通の一字(この場合は「道」)を持っていることがありますが、これを「系字」といい 平安時代前期の嵯峨天皇の親王(正良・秀良・業良・基良・忠良)などで見られます。
 このように名前が家柄・血統を表していたため、主君の名前一字をもらうということは大変名誉なことであり、主君の名前一字を授けられた家臣とその主君との関係は、とりわけ深かったと考えられています。ただ、応仁の乱以後権力が低下していた足利将軍家は、経済的に切迫していたため、自分の名前一字を金銭によって与えてしまうということも行われていたようです。
 上述のほか、幼名(信長の「吉法師」など)、通称もありました。官職名がそのまま通称になることが多く、たとえば織田上総介信長(上総介は自称)、島左近(島清興。石田三成家臣)などがその例です。
 当時は、目下の者が目上の者を呼ぶときだけでなく、目上の者から目下の者を呼ぶときにも、実名を用いて呼ぶことはなかったそうです。ちなみに、死後にいう生前の実名や、貴人の実名のことを「諱」と呼びますが、これは「忌み名」、つまり呼ぶことを憚った名を意味します。本名は、実生活ではほとんど用いられることがないものでした。
 江戸時代の武士も、生まれたときに幼名(元服までの呼び名)をつけられ、元服すれば本名(諱)を名乗り、けれども本名は諱(忌み名)であるから滅多に呼ばずに通称(元服後の呼び名)や綽名を用いました。字(中国風の名前)は成人あるいは許婚ののち用いられたとされ、本名は主に目上の人に名乗り、他には字を称したともいいます。更に出家すれば法名、亡くなれば戒名などがありました。他には学者・文人などが用いる「号」などもありました。
 これらに加えて、一定以上の役職に就くと朝廷から官位が授けられ、その官位名が通称として用いられることもあります。たとえば「左衛門尉」(遠山左衛門尉)などがそうです。
 現在ではあまり意識されることのなかった実名敬避の考えですが、明治初期までには存在していました。
 西郷隆盛の本名は「西郷隆永」であり、隆盛は父親の名なのですが、明治に入って戸籍を作る際、親しい友人が西郷の代わりに戸籍登録の手続をとったとき、友人(西郷)の実名を忘れ、誤って「西郷隆盛」と登録してしまいました。
 実名は、公文書や起請文を書くときだけ用いられていたので、友人も西郷の本名を間違えてしまったということです。
 なお、かつて日本の男性の代表的な名前であった「太郎」さんについては、この節の冒頭でも少し触れましたが、「長男」「男の子」という意味でした。「太郎」という呼び名は、後継ぎ(総領)息子という意味でしたので、源氏の惣領息子は、源氏の中では「太郎」と呼ばれますが、対外的には「源太郎」、略して「源太」と呼ばれました。判官の位を得た源義経は、九郎判官、また源九郎と呼ばれました。
 太郎の次の男の子は「次郎」と呼ばれます。この「次」には、長男に何かあったときに続くという意味が込められています。とはいえ、「次郎」ではなく「二郎」と書く例も見られます。
 十番目までは「十郎」でしたが、それを超えると「一郎」、「余一郎」、「与一郎」、「小一郎」などと呼ばれました。つまり、「一郎」は、本来は一一番目の男の子を指していたのです。そして、一二番目、一三番目……と男の子が生まれることを想定して、さらに重ねてという意味の「余」や「与」、「小」をつけました。
 もっとも、名前が、生まれた順番をそのまま反映しているというわけではないこともあります。次男の次男であれば「次郎次郎」ですが、この男の子を「小次郎」と呼ぶこともありました。
 また、これは余談になりますが、一二番目の男の子であれば、正確には「小二郎」ですが、佐々木小次郎の例があるように、そこまで厳密に「次」と「二」を書き分けているわけではないようです。

名前に込められた思い

 「人の名前」の冒頭で述べたように、アイヌの人びとはわざと赤ちゃんに汚い名前をつけます。タイのように、友だちの本名を知らず、もっぱら愛称で呼ぶ国もあります。
 ヨーロッパ、とくにキリスト教圏では、多くの名前が聖書に登場する人物からとった名前を用いています。聖書に登場する聖人にあやかるという意味もありますが、それらは多くがヘブライ語で、何らかの祝福を込めた名前となっています。
 イタリアでは、男の子なら祖父の名前を、女の子なら祖母の名前をつける、といった習慣があるようです。これは、祖父母がその孫の生まれ変わりであり、自分の祖先が、その子孫たちの中で、名前とともに生き続けているという考えの表れだということができます。
 名前の多くが、子どもの父母や祖父母が生まれてきた子の幸福を願ってつけたものである一方で、出身地や来歴が分かるように、名前(とくに名字)で差別されてきた人びともいます。たとえば、ユダヤ人やアフリカ系アメリカ人の姓には、そういう類のファミリーネームも、まだ残っています。

……続きます……

はじめに
ことのは
わのこと
そざい