はじめに

「ことば」とは何か

「はじめにことばがあった。ことばは神とともにあり、ことばは神であった。」
 ――ヨハネ伝福音書に記されている、有名な一節です。
 日本人の多くは一神教や聖書についてはあまり馴染みがなく、さらにいえば日常生活で「神」について意識することなどあまりないかもしれませんが、どのような国のどのような民族であれ、固有の神話を持っています。そして、神話とは、国の成り立ちや、さまざまな行事や儀式の来歴を伝える役割を担っているものです。なぜなら、遠い昔には、神話とは現実にあるさまざまな事柄の根拠であり、原理でもあったからです。――というよりむしろ、私たちの祖先が自分を取り囲む世界について理由を求めたときの「答え」として作られたものが、神話だということができるかもしれません。
 たとえば、太陽と月とが姉弟でありながら昼と夜に分かれて天に昇るのは、弟(月の神)が豊饒の女神を殺し、姉(日の神)がそれに怒ったためとされています。あるいはまた、一日に多くの人が亡くなり、かつ多くの人が生まれるのは、黄泉の国の女神とそのかつての夫とが、そのように言い争ったからとされています。人間の寿命が桜の花のように短いのは、ある神様が美しい桜の女神と結婚し、醜い石の女神は退けてしまわれたからとされています。もしその神様が石の女神を退けることがなかったならば、人の寿命は桜の花のように儚いものではなく、石のように永くなっていたことでしょう。――上記三つの逸話は、おもに宮廷のなりたちを描いた『古事記』『日本書紀』にある神話ですが、その土地固有の事物の由来や、行事・儀式の起源にまつわる神話は、日本各地にある土着の神話・伝説に残されています。
 神話とは、文学の始まりであると同時に、物語の極致でもあります。神話はまた、文化の基盤でもあります。そして、その神話を紡ぎ、伝える〈ことば〉とは、ヨハネ伝福音書にある通り、神そのものととらえられるかもしれません。いえむしろ、「神」を「神」として規定し、呼ぶのが〈ことば〉であるならば、人は〈ことば〉によって神を発見したとすらいえます。
 それでは、〈ことば〉とは一体、何なのでしょうか。
 日本語の〈ことば〉とは、「こと」と「は」とに分けられます。〈ことば〉は、漢字で「言」の「葉」と書きます。そして、昔の人はことばのことを「言の葉」とも呼んでいました。それでは「こと」の「は」とは、一体どのようなものなのでしょうか。
 「こと」というと、同じ読みのことばに「事」があります。漢字ではそれぞれ「言」、「事」となりますが、この二つのことばは、ほんらい語源が同じであるとされています。
 つまり、昔の人にとって、「事」と「言」とは切り離せないものだったのです。なぜなら、口に出された「言」が、現実の「事」になる――そう考えられていたからです。
 口に出された「言」が「事」になるというこの考えは、「言霊(ことだま)信仰」と呼ばれます。「ことだま」とは、ことばに宿る霊力のことで、「ことばには霊力が宿っている」というこの考えは、古来、日本にある考え方です。
 ただ、「ことば」という語からも分かるように、〈ことば〉とは現実の「事」そのものではありませんでした。「ことば」の「ば(は)」は、「端(は)」のことだといわれています。つまり「ことば」とは、「こと」の一部、ということになります。
 「ことば」は「ことのは」とも表されますが、この表現は日本最初の勅撰歌集『古今和歌集』仮名序(仮名で書かれた序文)に見られます。『古今和歌集』仮名序は、平安時代前期の歌人である紀貫之が著した歌論・歌学の出発点といわれる有名な文ですが、そのなかに、

やまと歌は人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける

という一節があります。
 ここでいう「言の葉」とは和歌の意味と解されますが、「言の葉」とは、人の心を種として表れ出た「葉」なのだと、ここには書かれています。種となる人の心は見えません。けれども、人の口から出た「言」の「葉」によって、私たちはそこに託された人の思いを知りますし、その「ことば」の意味を想像するのです。「言の葉」とは、「こと」の「は」(端)、つまり「こと」を形成する一部に過ぎないものですが、ことばが単なる字の連なりではなく、「葉」のように、心を種として生じ、広がり生い茂るものという考えから、この漢字があてられたのだということができるのではないでしょうか。
 そしてその〈ことば〉は、神話だけではなく、さまざまなものを生み出しました。〈ことば〉によって神へ訴える(=ウッタフ)ことが、歌うこと(=ウタフ)の始まりといわれています。〈ことば〉は誰かにものを伝えるための手段ですので、自分たちの祖先がどのような人であったのかを伝えるために、また自分たちの得た知識や子々孫々への訓戒を残すために、伝説や昔話が生み出されました。現在では、それらは総じて「文学」と呼ばれています。

現代にも残る「言霊」の考え

 言霊という考えが古くから日本にあったことは、先に述べました。
 その証拠に、現存する日本最古の歌集『万葉集』には、次のような歌が載せられています。

磯城島の日本(やまと)の国は言霊の幸(さきは)ふ国ぞま幸くありけり

 「磯城島」は「日本国」の別称で、この場合「日本(やまと)」にかかる枕詞となります。そして、「幸ふ」は「豊かに栄える」の意。なので、この歌を現代語訳すると、「日本の国は、言霊(=ことばの霊力)で豊かに栄える国であり、(ことばの力によって)繁栄して欲しい」というような意味になります。
 昔の人びとは、ことばには不思議な力(=言霊)が宿っていて、ことばやその使い方が、人の幸・不幸を左右すると信じていました。そのため、人はことばによって他者を祝福し、ことばによって神様に祈ったのです。
 たとえば、お正月や結婚式などで見られる「寿」(ことぶき)ということばは、「言祝ぎ(ことほぎ。「寿ぎ」とも)」の転で、「ことばによって祝福すること、また、そのことば」を意味しています。
 「ことばを発する」ことを意味する動詞には、「言う」や「宣(の)る」がありますが、「言う」(「言ふ」)に動作の反復を表す「ふ」がついて「いわふ(祝う)」ということばが、「宣る」に神聖の意を表す「い(斎)」がついて、「いのる(祈る)」ということばが生まれました。「何度も口に出して言う」ということが「祝う」ことであり、「神仏の名や祝福のことばを口に出し、幸いを求めること」が「祈る」ということになります。「宣る」からは、他にも、〈祝詞(のりと。神道で神様に奏上するための文章)〉ということばや、〈呪う〉、〈宣(のたま)う〉ということばが生まれました。
 ことばにはまた、人を傷つける力もありました。「いのる」や「のりと」をかたちづくる「宣る」からはまた、「罵(の)る」ということばも生じています。
 このように、人を幸せにも、不幸にもできるものであるからこそ、人は「ことば」をとても慎重に扱っていました。
 現代では、「言霊」というものはあまり意識されていませんが、日常生活のなかからも、ところどころに言霊信仰の名残をうかがうことができます。たとえば、イカの干物を「するめ」といいますが、「する」が物品を失うことに通じるというので「あたり」にして、「あたりめ」と呼んでいます。「サル」が「去る」に通じるので、「得て」と呼びます。下に「公」をつけ、「エテ公」ともいいますね。
 これらはみな、もともとの呼び名が不吉なものを連想させることから、そのものの呼び名をおめでたいものに変えているのです。このようなものを「忌み言葉」といいます。
 ほかにも、結婚式での「別れる」「終わる」「切れる」、出産祝いでの「流れる」、お葬式での「重ねる」「再び」などは、忌み言葉なので、使ってはならないとされます。
 言霊信仰は、このように今でも私たちの生活に残っています。

かたる、うたう

 ことばを発することを表す動詞は、複数あります。言う、話す、語る、しゃべる、……。ことばを紙の上にとどめおく動作を表す動詞が「書く」「記す」のみであることを考えると、いかに日本人が「ことばを発すること」を重要視していたかがうかがえます。
 文字がなかった時代や、読み書きができない人の多かった時代には、「話」の多くが口から口に伝えられる形で語り継がれていました。これら口から口に伝えられる物語たちを、「口承文芸」といいます。文学の始まりは口承文芸であり、「物語」ということば自体、「物を語る」というところから出発しています。神話や民話は、祖父母から孫へと語り継がれながら、現在の私たちまで伝わってきているのです。
 ところで、この「かたる」という動詞、「語る」とは違う意味を持った動詞としても使われます。それは「騙る」、すなわち、「安心させて騙す」という意味の動詞です。
 「語る」とは、「物語」のように、「ある程度まとまった話を伝えること」を意味する動詞ですが、安心させて騙すことを意味する「騙る」も同じ、「かたる」と読みます。このことに関して、絵巻物の絵解きを研究されている大学の先生が、以下のようにおっしゃっていました。――「物語」とはその名のごとく、ほんらい人が「物語る」話のことだが、語り継いでいるうちに曖昧になってしまったり、あるいは語り手が「こうしたほうが面白い」と、話に手を加えてしまったりすることがあった。悪意はないけれども、面白くしようとして話を大きくしてしまったり、付け足してしまったり、変えてしまって「語る」ことが、「騙る」こととなったのではないか。
 たとえば、同じ『桃太郎』でも、地方によって細部が異なっていることがあります。川上から流れてきた桃を食べて若返ったおじいさんとおばあさんから生まれたとする話もありますし、桃太郎が桃のなかから生まれたとする話でも、緑の桃と赤い桃とが流れてきて、赤い桃から桃太郎が生まれたとする話もあります。
 自分の知っている話(現在では、昔話の多くは本によって知ることになっているので、全国的にほぼ同じ内容の『桃太郎』が認知されているようですが)と内容が異なっている物語があるのは、物語がほんらい口伝えで伝わるものだったからです。一つの話を十人の人が聞き、家に帰ってその話を子どもに語るとします。何度も聞いて完璧に語れる人もいれば、記憶が頼りですから、細かい点を忘れてしまう人もいるでしょう。そもそも、「語らない」という選択肢さえあります。十人の人がいれば、十人分、少しずつ違った話が伝わって(あるいは、伝わらないで)いきます。口から口へ伝えられていくなかで脚色されたり、一部が欠落したり削除されたり、または追加された結果、地方色豊かな昔話ができあがったのです。
 これとは逆に、別々の話でありながら、他の話ととてもよく似ている点が見られる昔話もあります。たとえば、『花咲か爺』に登場する犬は、川上から流れてきた桃に入っていたとする話が伝わっている地域があります(そのほかに、もともとお爺さんとお婆さんが飼っていたという話、川上から赤白の香箱が流れてきて、犬は白い香箱から生まれたとする話もあります)。この犬の登場の仕方は、私たちのよく知る桃太郎と同じです。『花咲か爺』に登場するこの犬の灰を爺さんが撒くと、枯れていたはずの木に花が咲きました。つまり、『花咲か爺』に登場するこの犬はもともと普通の犬ではなく、初めから霊犬だったと考えられるのです。超常的な力を持っていたからこそ、『花咲か爺』に登場する犬(多くは白い犬とされていて、ポチやシロといった名前があるようです)も桃太郎も、川上から、桃に入って流れてきたのです。桃太郎と『花咲爺』の犬に見られるこの共通点は、桃が霊力のある植物とされていたこと、他とは違った生まれ方をしたものには霊力があるとされていたこと、川上(すなわち、山)には別世界があり、そこから来るものには不思議な力があると考えられていたことなど、日本に古くからある信仰・思想と結びついています。
 伝わってきた物語の形式が一つしかなかったら、「なぜ桃が川を流れてきたのだろう?」「桃太郎はなぜ『桃』から生まれたのだろう?」など、「昔話だから」「迷信」で済まされてしまいそうな「不思議」が多く残ったでしょう。しかし、さまざまな形の話が現代まで伝わっていることで、私たちはこれらを比べ、読み解き、紐解き、『桃太郎』や『花咲か爺』の根底に、日本人が古くからもっていた思想が流れていることを知ることができます。
 また、これらの昔話は、長い時代を経て現代まで伝わってきています。それは祖父母から孫へ語り継がれる話であるという、口から出された「言」のもつ力と、多くの人を経て「騙られる」ことによって多様に変化した物語の魅力があるからではないでしょうか。「かたる」とは、物語を伝えることである(=「語る」)のと同時に、受取手が話の創作に関わる(=「騙る」)ことでもあったのです。
 話を元に戻しましょう。昔話もお伽噺も、「話」や「噺」をつけています。お伽噺はその名の示す通り、夜、寝る前に聞かせるお話です。話は「話す」からきていますし、物語も「物を語る」というところから出発しています。物語とはもともと、声に出して聞かせるものでした。ちなみに、「語る」も「話す」も、同じようにことばを発する動作を表す動詞ですが、昔語りなどの「語る」という行為は、「旋律をつけた一定の形式をもって発話される動作」を指すようです。
 先に「言ふ」から「祈る」が、「宣る」から「祈る」や「呪う」、「宣う」、「罵る」が生じたと書きました。口に出して「言ふ」もしくは「宣る」ことはそれ自体呪力を持っていましたが、繰り返し言う(=祝う)ことや聖なることばを宣る(=祈る)ことは、その方法や発する内容を変えることで、単に「言ふ」ことや「宣ふ」こととは異なる力を持ちました。
 特に「歌ふ」ということは、一定の節をつけてことばを発するので、とりわけ強い力を持っていると考えられました。「歌ふ」ということば自体、「訴ふ」と同義で、「歌ふ」ということは「神様に訴えかける」という意味を持つのだといわれています。
 節はつけないながらも一定の語調で「詠まれる」ものも「歌」(和歌)といいますが、これも声に出したときに耳に心地よい七五調で詠まれています。『万葉集』や『古今和歌集』などに「詠まれた」ものには恋の歌が多いといわれますが、かつては神に、時代が下っては人の心に訴えかけるのが、「歌」であるからかもしれません。
 冒頭に掲げた『古今和歌集』仮名序を、再びここに記します。

力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の中をも和らげ、猛き武士の心をも慰むるは歌なり。

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