※注意:
 島原(京都)は「花街」であって「遊郭」ではないとする見方もあります。同時に、島原の太夫らは「芸妓」であって「遊女」ではないとする見方もあります。
 遊郭は公娼を集めて居住させた特別地区であり歓楽を目的とするもの、花街は演舞場など芸を披露する場のある地域として捉えられているようです(辞書などを調べても両者が混合されている場合がほとんどですが……)。「芸妓」というのは芸を披露するのが仕事の女性で、「遊女」ももともとは芸を披露する女性のことを指していましたが、時代が下り、今でいう「娼婦」を意味するようになったようです。

 遊廓については、備忘録「遊廓のこと」にも少し記載しています。

江戸時代の遊郭

 江戸時代の三大遊郭(※1)は、吉原(江戸)嶋原(島原とも。京都)新町(瓢箪町。大坂)でした(※大坂新町ではなく、肥前長崎丸山町、あるいは伊勢古市を三大遊郭とする場合もあります)。当時、遊郭は人々の社交の場であり、遊女との恋などが浄瑠璃や歌舞伎などに多く見られます。
 まず、天正17(1589)年、豊臣秀吉の公許を得て、京都・二条柳町に遊里が開かれました。そののち慶長7(1602)年に六条に上、中、下之町の三筋を定めて、六条三筋町の時代が始まります。そして寛永17(1640)年、西新屋敷に場所を移転し、以来この地を「嶋原(島原とも書く)」と称しました(※2)。
 江戸では元和4(1618)年、各所に散在していた遊里を集めて葭原(吉原)と称したといいます。それを1657年の明暦の大火後に移転し、新吉原と称しました。
 大坂では、元和2(1616)年に木村又次郎という者が下博労海辺の葭沼を開いて新町廓の設立を願い出、寛永6(1629)年に落成、同9年に営業を開始したといいます。

※1……庄司勝富『洞房語園』によれば、官許遊郭はこの他、下関稲荷町、博多柳町、長崎丸山など25ヵ所があったようです。
 各廓における遊女の違いは、小川顕道『塵塚談』で「京の女臈に長崎の衣装を着せ、江戸の張を持せ、大坂の揚屋にて遊びたひと、古き俚言也……」と言い表されています。
 因みに、「」とは公許の遊郭を指し、私設のものは色町、茶屋町、新地などと呼ばれました(『女性語辞典』東京堂出版)。江戸にあった私娼地は「岡場所」とも呼びます(大坂では「島」と呼びました)。江戸では深川(「辰巳」と呼ばれました)仲町や本所弁天町が岡場所として有名でした。大坂曽根崎新地や、京都の祇園なども私設のものでした。
※2……移転当時起きた「島原の乱」に因んで生じた俗称といわれています。そして長崎の島原と区別するために、「原」と書くようになったとか。

解放の場としての遊郭

 柳沢淇園『ひとりね』では、遊女と地女(素人女性)とは「雪と墨」ほど大違いであると述べられ(※3)、「色恋は遊郭にしか存在しない」という発言さえ見受けられます。
 というのも、当時の結婚とは、結婚相手が親や親族によって決められる、「家と家」の、「生活のため」のものであり、そこには結婚する当事者の感情がさほど重要視されていなかったためです。「親が勝手に結婚相手を決めるので、夫婦の情愛が薄い」(『ひとりね』※4)などとも書かれています。
 身分違いの恋の果てに悲劇が待つことは『好色五人女』巻一(※5)などから知ることができます。
 遊郭は、金銭万能の世界であり、遊女と客との関係は、金銭を媒介としたものでした。しかしそれゆえに、金銭で財力を振り回すものは遊郭では嫌われました(歌舞伎の『助六』に登場する髯の意休もその例でしょう)。遊郭は、金銭万能の世界であるがゆえに、金銭尽くでない真実の愛情が渇望され、またそれらが叶えられた場所でした。また、遊郭は金銭のある者が強い、すなわち金銭さえあれば身分に関係なく、誰もが平等な場所だったのです。
 身分が厳格に統制されていたこの時代、金銭尽くではない真情が得られ、誰もが平等な身分を尊重される遊郭は、そこを訪れる人々にとっては、魅力的な解放の場であったといえるのではないでしょうか。

※3……「女郎さまと地女とは雪と墨とはおろかな事也。大仏と松風丁字ごまほどのちがひ。」とある(『日本古典文学大系96 近世随想集』岩波書店)。
※4……「親父欲にて棟の高き家(=資産家)の娘のへんばをいとはず、子〔の〕心親しらずとやらにて、めつたと(=無闇に)縁を結びけるによりて、二処ね(=同衾せずに)のよろづ物いひさがなく、帰縁の種となる事なげかはしけれ。」とある(同上)。
※5……井原西鶴。但馬屋のお夏とその家の手代清十郎が駆け落ちした結果、清十郎は処刑され、それを知ったお夏は狂乱するも、後に比丘尼となり清十郎の菩提を弔ったという筋。

すい、通、いき

 「」(いき、すい)や「」は近世を代表する美意識ですが、これらは遊郭で育ったものともいわれています。これらの語は、特に人情や花柳界、遊興のことに精通している人をいい、遊里の事情に通じていない人を「野暮」とか「不粋」、「半可通」などと呼びました。
 『好色一代女』には、「野暮は嫌なり。中位なる客はあはず、粋なる男目にたまたまあへば……」などとあります。

悪所

 太夫と遊ぶには莫大な費用がかかり、三大遊郭(江戸の吉原、京都の嶋原、大坂の新町(瓢箪町))のような一流の遊郭は当初、限られた人々にのみ開放された場でした。
 しかし客である武士や豪商の経済的没落に伴って、遊郭側の質的低下ももたらされ、それによって遊郭は、〈理想的な色恋の場〉から、危険な浪費を促す〈悪所〉へと変貌していったと考えられます(※6)

※6……江戸新吉原では宝暦年間、花紫という太夫を最後に太夫格の遊女がいなくなってしまいました。また、それと前後して、太夫に次ぐ格子格の遊女もいなくなってしまったようです(『江戸吉原図聚』中公文庫)。高級遊女がいなくなるということは、それだけさほど富裕でもない町人層が遊郭に出入りすることが可能になったのだということも出来るでしょう。

 遊女の階級についてはこちら(別窓)。

文学作品に見る遊女―救済者としての存在

 遊女は、歌舞音曲・お茶・お花などの諸芸に通じ、文学の教養もあり、上級武士達と対等に話が出来るという理想の女性、憧れの存在でした。それゆえ、遊女をめぐる色恋は、当時盛んに浄瑠璃や歌舞伎、浮世草子の題材となったのです。訪れる人々にとって廓が極楽浄土であったなら、遊女はそこにいる神女・天女であった、ともいえるのではないでしょうか。
 元禄歌舞伎の代表的ヒロイン・新町の遊女夕霧や揚巻、小紫など、遊女の色恋をめぐる作品は数多くありますが、以下では近松門左衛門の心中物『曽根崎心中』と『心中天の網島』を例にとって考察してみました。

 『曽根崎心中』『心中天の網島』はどちらも著名な作品ですが、どちらの作品も家庭や仕事を省みず廓通いを続ける「悪性者(=浮気者、道楽者)」と判断される男が主人公です。
 『曽根崎心中』の主人公・徳兵衛は、主人の姪との結婚話を断るために田舎の継母からわざわざ取り戻した結婚持参金を、友達の九平次に貸してしまいます。しかもその九平次は印判偽造の濡れ衣を徳兵衛に着せてしまうのです。
 『心中天の網島』でも、主人公・治兵衛が心中を覚悟で遊女・小春のもとへ通うのを知った治兵衛の妻・おさんの懇願によって、小春は治兵衛を家へ戻そうと自ら身を引くのですが、治兵衛はそれを知らずに小春の心変わりを罵り、小春を脇差で殺そうとまでします。
 どちらの主人公も、思慮分別に欠けた直情径行な性格といえるでしょう。しかし、『曽根崎心中』では、遊女お初は徳兵衛の悪い評判を聞いて心から泣き、徳兵衛の悪口を言う九平次を詰りさえします。『心中天の網島』において、小春が身を引くのは治兵衛を思ってこそのことです。どちらの作品でも、ヒロインは主人公に献身的に、そして誠意をもって接しています。その姿は、主人公にとって性的な救済と同時に、精神的な救済をももたらす存在であったでしょう。
 一方で、主人公達もヒロイン達にとっては「救済者」といえます。徳兵衛も治兵衛も、思慮分別を欠いた性格であることは否めません。しかし、全てを顧みずただ真情をもってヒロインのもとへ通う主人公は、「苦界」とも呼ばれる遊郭において、金銭によって春をひさがなければならなかったヒロインにとっても、救済者であり、それゆえ主人公とヒロインの間には、観る者を感動させるような純愛・情愛が存在していたといえるでしょう。

 因みに、当時は心中するのは位の低い遊女と考えられていました。太夫といった上級遊女との恋は、いうなれば幻想化・理想化された「遊びの恋」であり、それゆえ太夫は心中するものではないという考えがあったようです。
 近松の描いた遊女にもそれは反映されており、例えば『淀鯉出世瀧徳』に登場する新町の太夫・吾妻は江戸屋勝二郎と結ばれますが、さほど位の高くない『曽根崎心中』のお初や『心中天の網島』の小春は、主人公とともに心中するという結末になっています。

近代以降の公娼地

 1872年、明治政府は「娼妓解放令」によって公娼制度廃止を布告しました(※7)。しかし古い遊郭は〈貸座敷〉に再編されたに過ぎず、公娼制度の実態に変化はありませんでした。
 売買春に対する規制として、1956年になってようやく売春防止法が制定されました。

 ※7……1872年の「マリア・ルース号事件」で、ペルーが日本の娼妓制度を人身売買と弁じたのが契機となりました。

追記:幕末の遊郭

 三大遊郭として有名な京都島原ですが、祇園などの花街に押され、江戸中期を過ぎると衰退していました。
 しかし幕末期、政治の中心が京都になると、京都を訪れた浪人たちが島原に訪れるようになったことから、にわかに活気づいたそうです(新選組が島原で豪遊したという話は有名)。
 因みに島原には現在も置屋(※8)と揚屋(※9)があります。それが「輪違屋」と「角屋」で、この「輪違屋」は現在も営業中(一見さんお断り)、角屋は美術館となっています。

 ※8、9……置屋は遊女を抱えておく店で、揚屋は置屋から遊女を呼び、客を遊ばせる店のこと。遊女が置屋から揚屋に向かうのが所謂「花魁道中」(嶋原では「太夫道中」)です。

参考

 『女性語辞典』(東京堂出版)、『江戸吉原図聚』(中公文庫)、『日本史小百科 遊女』(東京堂出版)、『日本古典文学大系96 近世随想集』(岩波書店)、『西鶴・芭蕉・近松 近世文学の生成空間』(和泉選書)、『江戸名物評判記』(岩波書店)、『広辞苑』第五版(岩波書店)、『百科事典マイペディア』(日立システムアンドサービス)