近世「江戸時代の遊郭」の補填項目のようなものです。
 孫引きになってしまうもの、専門的過ぎることがほとんどなのでこちらに。

遊廓25ヶ所

 『守貞謾稿』に、『洞房語園』に所載の遊廓(官許の遊里)25ヶ所が書かれていました(孫引き)。
 それによれば、

 「武陽浅草の吉原(現東京都)、京都島原(現京都府)、伏見夷町(現京都府)、同所柳町(現京都府)、大坂瓢箪町(現大阪府)、奈良鳴川(現奈良県)、江州大津馬場町(現大津市)、駿府府中弥勒町(現静岡県)、越前敦賀六軒町(現福井県)、同国三国の松下(現福井県)、同国今新庄町(現福井県)、泉州堺北高洲町(現在大阪府)、同国同所南津守(現在大阪府)、摂州兵庫磯の町(現兵庫県)、岩見塩泉津稲町(現島根県)、佐渡鮎川山崎町(現新潟県)、播州室小野町(現兵庫県)、備後鞆〔蟻〕鼠町(現広島県)、芸州多太の海(現広島県)、長門下の関稲荷町(現山口県)、肥前長崎丸山町(現長崎県)、薩州樺島田町(現鹿児島県。正しくは肥前樺島で、現長崎県)、同国山鹿野(現鹿児島県)」

 が、官許の遊里25ヶ所ということです。ただし『色道大鏡』などと比べると異同があるので(『色道大鏡』で廃絶したとされている遊里が『洞房語園』に記されている等)、必ずしもこれが正しいというわけではないようです。
 官許でない遊里を江戸で「岡場所」と呼んだということはよく知られていますが、上方では「外町(そとまち)」と呼んだそうです。京都では、祇園町のことは「河東」といい、大坂では、島の内・坂下等は「南」と呼んだそうです。また、『守貞謾稿』には、「官許にて廓をなすものを花街の字をあて……」とあります。現在「京都五花街」には、祇園も含まれています。
 江戸では遊女町(官許・非官許とも)は「悪所」と呼び、京坂では「いろまち」と呼んだそうです。

花代

 現在も、舞妓さんや芸妓(芸子)さんをお座敷に招くときの料金を「花代」などと呼びます。
 遊里ではかつて線香を焚いて時間を計ったそうですが、そのとき線香を「花」と称していたことに因みます(線香が燃え尽きるまでの時間分、舞妓さんや芸妓さんを招いていられた)。
 島原の太夫と遊ぶには一日夜銀72匁(金1両が銀50~60匁)かかったといいます。『守貞謾稿』に

 「また太夫は一日夜七十二匁、たとひ一時半日といへども減銀せず。……天神以下の遊女および芸子は一日一夜の定制差あり。……」

 とあります。遊女や芸妓と遊興するには、時間によって遊興費が変動することがあっても(天神は銀25~28匁、囲いは銀14~16匁と、基本的には額が定まっていたようですが)、太夫と遊ぶには、時間による減額などはなかったということでしょう。ちなみに、島原以外の遊里(非官許)では線香で時を計り、時間に応じて支払う金額が決まる制度がもっぱらであったらしく、花(線香)一本が銀2匁3分であったといいます。『守貞謾稿』に「一時に五本焚く。一日に三十本、花代銀六十九匁……」とあったので、線香一本が燃え尽きるのは大体25分くらいということになるのでしょうか(一時は現在の約2時間で、季節によって変動)。とはいえ、あくまでもこれは目安であって、増減することもあったようです。
 ちなみに、島原の太夫は銀72匁とあったが実際は銀57匁6分、大坂新町の太夫は銀69匁とあったが実際は銀61匁1分だったそうです。これもあくまで「目安」とありますが……。
 太夫に次ぐ位である天神は、その名称が、揚代が銀25匁で北野天神の縁日(25日)とかけたためといわれていますが、後に素晴らしい天神が現れたので、揚代が銀28匁になったという記述もあります。また、かつては大天神と小天神とがあり、大天神が銀43匁、小天神が銀25匁であったともいいます。ちなみに大坂新町の天神の揚代は、銀33匁であったそうです。

 余談ですが、金は主に江戸で、銀は京坂で用いられた貨幣といいます。また、身分によってお給料も金本位と銀本位とに分かれていました(武士では、大名やお目見えは金、それより下は銀。町人や百姓は銭)。
 京都嶋原では、天神の名前の由来が揚代25匁で天神様の縁日に因むということからも分かるように、銀が用いられていたようです。しかし太夫の揚代は「1両2朱」と記述されている場合もあり、こちらは金による計算です。客層の違いということと関連があるのでしょうか。

 続きます。

 喜田川守貞 著・宇佐美英機校訂『近世風俗志(二)』(岩波書店)、明田鉄男『日本花街史』(雄山閣)を参考にしています。