最初に少しだけ、方言の概説を記載しています。

方言とは

 方言は、日本人ひとりひとりの「本音の日本語」に地域差が表れることに着目したものといわれます。
 方言はほとんど一対一の対話の場面に展開します。公の場では共通語を用いることが多く、あまり方言を用いることはありません。
 因みに、地域差から生まれる日本語を地域方言といい、使用者の性別・職業や、使用者は同じでも相手の立場や話題によって使い分けるものを社会方言といいます。「方言」というと大抵は「地域方言」が指される場合が多いです。
 方言研究の主な目的としては、日本語の歴史の解明が挙げられます。

 附記:明治維新の際に、統一国家形成の一環として言語の統一が図られました。その際に「方言撲滅」「標準語確立」「標準語普及」の動きが見られました。
 その後標準語(共通語)が普及し、伝統的な方言を文化財としてとらえた「方言保存」「方言愛護」の動きがありました。現在は、市町村合併・通信手段の普及に伴う標準語伝播などによって、「方言保存」「方言愛護」の動きが続いているといえそうです。
 以前、方言研究家の先生が、「方言」を「訛(なま)る」というマイナスイメージで捉えてはならないと仰有っていましたが、現在 方言は、その地域に根ざすもの、その地域の風土、歴史、人の心をあらわす文化の一つと、肯定的に捉えられています。
 「標準語」(いわゆる山手方言)ということばを「共通語」として捉える認識が広まったのも、各地域の方言を見直し、大切にしようという動きのあらわれといえるかもしれません。

方言の研究

 方言の伝播と分布に関する有名な研究に、民俗学者・柳田国男が『蝸牛考』で唱えた方言周圏論があります。
 「かたつむり」を意味する語彙を各地域で調査した結果、京都を中心に語彙が円形に伝播していったことを明らかにし、「言語は文化の中心地(ここでは京都)で発生し、新たな語が生まれては消えていくが、文化の中心地でその語が消滅しても、その語が伝播した先に古い語が残る」ことを述べているものです。この考えは非常に重要な方言論ですが、主に語彙についていえるものとされ、音韻や文法については別の法則が認められるといわれています。
 国語学者・東城操は方言区画論を発表しました。それは日本の方言区画を、東部方言(北海道、東北、関東など)・西部方言(北陸、近畿、中国など)・九州方言の三つに分類した論です(「三大方言の鼎立説」ともいいます)。また、沖縄方言を分離する藤原与一の説、金田一春彦の同心円説などもあります。

長野県の方言

 方言は語彙・音韻・文法など、様々な要素によって分類することができるため、上記の他にも分類方法があります。
 長野県の方言は、東城操の分類における東部方言に概ね分類されますが、西部方言地域と接する部分の長野県・山梨県・静岡県での方言は特に「ナヤシ(長野・山梨・静岡の頭文字)方言」として分類されることもあります(逆に、東部方言地域と接する岐阜県・愛知県の方言は「ギア方言」として区別されています)。
 かつて京都が政治・経済の中心地であった頃、現在の東日本は「未開の地」のようにとらえられていました(「あずまえびす」ということばがそうです)。
 そして長野県は、都から異郷と見なされていた東国=関東の最南端と見なされていた地域であり(※)、都の文化が伝播した終点と考えることもできます。江戸時代になり、関東にも文化の中心地が誕生すると、長野県は今度はそちらからの影響も受けるようになりました。
 長野県は、東と西の境目として両方の文化の影響を受ける地域であり、かつどちらの中心部からも離れた異郷の境目として、異なる二つの文化、新しきものと古きものの両方を受け入れ、融合してきた地域である――といえるのではないでしょうか。

 ※……『万葉集』の「東歌」に、信濃の国の歌も掲載されています。

東信地域の方言語彙

 「本州の中央に位置する長野県の地域特性」でも述べた通り、長野県は色々な地域に接しており、接する地域によって様々な地域の方言の影響を受けています。
 東信地方は群馬県に接しており、いわば関東圏への出入り口です。江戸時代には、冬の農閑期に江戸へ出稼ぎに行く人も多かったようで、江戸っ子ことばも東信には多く伝わりました。江戸っ子ことばは、今も方言として残っています。代表的なものとしては、「ヒ」と「シ」の混同が挙げられます。「いいヒと」が「いいシと」になる場合などがそうです。そのほか、連母音の融合現象も、江戸っ子ことばからの影響です。「くどい(kudoi)」が「くでー(kude:)」になる場合などがそれです。
 また、中山道という大きな交通路があったことから、様々な地域とも交流があり、そのため関東以外の地方からもことばの影響を受けています。
 そのうちのひとつとして、古語(中古、都から伝播したことば)の変化と考えられる方言をまずご紹介します。

オヤゲネー

 中古、都から伝わってきたと考えられる語彙に、「オヤゲネー」という語があります。
 「オヤゲネー」、これは「可哀相」を表す東信地方の方言です。因みに、長野県内では「可哀相」を表す方言として、他に「モーラシイ」「ムゲー(モゲー)」などがあります。長野県内は、「可哀相」ということば一つとってみても地域差があるのです(※)
 この「オヤゲネー」という方言は、「おやげなし」という古語がもとになっていると考えられます。「おやげなし」というこの古語は、『源氏物語』にも登場しています。「親げなし」で、もともとの意味は「親としての属性に欠ける」であったものが、そのうち「親としての情愛に欠ける」→「無慈悲だ」→「可哀相だ」というように、意味を変えていったものと考えられます。
 古代、信州は都から異郷と見なされていた東国=関東の最南端と見なされていたことから、東信地方は都の文化が伝播した終点であり、そのため古語が方言として形を変え、現在もなお残存していると考えることもできるでしょう。

 ※……長野県内の「可哀相」を意味する語彙の分布は、馬瀬良雄氏『信州のことば 21世紀への文化遺産』(信濃毎日新聞社刊)に掲載されています。

ツボイ

 「可愛い」の意。『閑吟集』(室町時代)に同じ意味で用例が見られます。

ラッチムネエ

 「くだらない」の意。「臈次も無い(らっしもない)」は「順序が立たない、乱雑である、だらしない」の意とあります。「らっちもない」も同じで、「ラッチムネエ」は「らっちもない」が変化した形と考えられます。
 『日葡辞書』から例が引かれているので、江戸時代前期には成立していたと考えられます。

ウナ

 「お前」の意。「汝(うぬ)は」の約と考えられます。
 長野県では、女性でも自分のことを「おれ」ということがあります(「おら」ともいいます)。現在「おれ」といえば、多くは男性の一人称として用いられますが、江戸時代には「おれ」(「己」)は自分自身のことを意味する語として、男女の別なく用いられていました。

ヤブセッテー

 同じく古語に「いぶせし」という語があります。この語は「気持ちが晴れない、鬱陶しい」の意です。
 この「いぶせし」と関連があると考えられる方言が、「ヤブセッテー」。鬱陶しい、不快であるの意で用いられます。
 「いぶせし」が〔yibusesi〕として、それが〔yabusesi〕に転化したと考えられます。

ヨサズ

 長野県内の特徴的な方言として、勧誘または推量を意味する「ズ」があります。
 「ズ」といえば一般的には打ち消しの意で用いられますが、長野県内で「ヨサズ」と言ったら「よそう、やめよう」、「イカズ」といったら「行こう」の意です。
 出自は「むとす」にあるといい、これは推量の助動詞「むず」の原形といわれます。この「むとす」は、『古事記』にも登場している古い用法です。

 それでは次に、関東圏以北、主に江戸と関連があると考えられる語彙を紹介します。

オクンナンシ

 「~して下さい」の意で用いられます。オクンナマシともいい、敬意を表し、主に目上の人などに対して用いられます。
 オイデナンシ、ゴメンナンシ、オヤスミナンシなどの「~ナンシ」は江戸時代を通じて用いられた「なんす(なます)」(尊敬の助動詞)の命令形です。命令形は、上方では「なんせ」、江戸では「なんし」が用いられていて、東信方言の「なんし」は江戸語との関わり合いを持っていると考えられています。ナンシの他にナンショを使う場合もあります。

ブチャル

 捨てる、の意で用いられます。
 関東圏では捨てるのことを「うっちゃる(打ち遣る)」というので、その転化と考えられます(「打つ」は「ぶつ」ともいうので、「ぶちやる」の転、と考えられます)。

メカゴ

 メカゴのゴは鼻音なので、音を記述する際には「コ°」と表現されます。麦粒腫、俗称〈ものもらい〉のことをいいます。
 因みに、ものもらい(東信方言では「メカコ°」)は、県内には〈ものもらい〉を表す語にモノモライ、モノムライ、メノモライ、メコジキ、メッパなどがあるそうです(馬瀬良雄氏『信州のことば 21世紀への文化遺産』による)。「物貰い」「目・こじき」はいずれもおまじないと関係する方言と考えられます。麦粒腫は人からものをもらうと治るという俗信があるので、ものをもらう=モノモライ、あるいはものをもらうことから連想してらメコジキ(目乞食)を、麦粒腫の呼び名としたのでしょう。東信方言「メカコ°」は群馬県と同じ語形なので、この語も関東圏との結びつきがあるといえます。
 佐藤亮一監修『お国ことばを知る 方言の地図帳』(小学館) によれば、〈ものもらい〉を表す語は、他にホイト(陪堂。山陰)、カンジン(勧進。静岡)などがあり、どちらも仏教用語が各地で乞食を意味する語に転じたとしています。「乞食」は本来「こつじき」で、僧の行う托鉢のことを指したため、同じ仏教用語が各地で変化していったと考えられます。
 麦粒腫を治すためには、七軒の家を回って食べものをもらい集め食べれば良いという呪術があり、そこからこの腫れ物を「ものもらい」と呼ぶようになったといいます。七軒の家を回ってというのは、七が縁起の良い数字であったから。食べ物をもらうということは、穀物の霊をもらい受けるということで、その霊力によって腫れ物を治そうとしたのだと、岩井宏實『吉を招く「言い伝え」 縁起と俗信の謎学』(青春出版社)にありました。

エボツル

 エボツルは怒るの意。「エボッツリ」は「怒りっぽい人」の意で用いられます。
 イボムシは東北地方で〈カマキリ〉を意味する語彙。エボツルはカマキリ=イボムシ(東信地方では「エボムシ」)が、上半身を起こして前肢を振っている姿が、怒っているように見えることからついたのではないかと考えられます。
 佐藤亮一監修『お国ことばを知る 方言の地図帳』(小学館) によれば、疣をとる呪いにこの虫が用いられたことが、イボムシの名称の由来ではないかといいます。

アックイ

 踵を意味します。関東・東北地方で踵のことをアクト、またはアグトを意味するとあり、そこから転じたものと考えられます。江戸時代の読み物『東海道中膝栗毛』にも既に登場しています。

コエー

 「濃い」の意味で用いられます。東信ではイとエが混合されるので、コイー→コエーになったものと考えられます。
 馬瀬良雄『信州のことば 21世紀への文化遺産』(信濃毎日新聞社)には、この「コイー」から生じた「コエー」の元々の語が「コワイ」と誤認され(過剰修正)、県内で濃いを「コワイ」というようになったのではないかという考察があります。中信北部では「疲れた」の意味で「コワイ」が用いられるそうです。

ホマチ

 へそくりの意。「主人に内密で家族・使用人が開墾した田畑、また、たくわえた金。へそくり」(『広辞苑』第五版)とあり、『浮世風呂』にその出典がありました。「ほまち商い」とは、使用人が主人に内密で商売をして利益をあげることをいい、これは近世期の語とありました。
 その他、「ほまち子」「ほまち田」などの関連語もあることから、割合広範囲で用いられた語のようです。

ショーシー

 「笑止い」は共通語では「気の毒である、滑稽である」。東信では「恥ずかしい、きまりが悪い」の意で用いられます。秋田や福島では「ショーシ」、岩手では「オショス」、宮城では「オショスエ」、新潟は「ショーシー」といいます。

ボボ

 飛騨高山のお土産として有名な「さるぼぼ」の「ぼぼ」と同じ、「赤ん坊」の意です。また、主に世間知らずな男性のことも指します。