長野県東信地域とはどの地域を指すのか

 長野県または信州といって思い起こされる場所は何処でしょうか。
 白馬、安曇野、松本…… そして「軽井沢」。
 とはいえ、「軽井沢」は「長野県」もしくは「信州」というより、「軽井沢」だけで通るような気持ちも致します。
 現在は避暑地として有名な軽井沢。この軽井沢は「東信」に属しています(軽井沢は、正式には「北佐久郡軽井沢町」です)。
 東京と長野間を結ぶ新幹線「あさま」が停車する長野県内の駅、実は長野を除いて全て「東信」に属しています。
 「あさま」停車駅は、避暑地としては知名度ナンバーワンの軽井沢、近年新幹線の開通に伴い繁栄してきた佐久平、島崎藤村や山本勘助で知られる小諸城がある小諸市、真田氏で有名な上田、そして善光寺で有名な長野県の県庁所在地・長野……というふうになっています。
 東京からの交通の便が良い、つまり関東圏と行き来がしやすいのが東信の特徴です。
 管理人の生まれ故郷である佐久地方は、佐久市中込から内山峠を越えて群馬県富岡へと走る富岡街道によって上州(現在の群馬県)への移出米の通路にあたったそうです。信州は寒さの厳しい国なので、人々は冬中は江戸で出稼ぎをし、春に郷里に帰るという暮らしをしてきたといいます。そういった暮らしの様式に加え、婚姻などの相互交流などの人の移動があったことから、東信は民俗一般に関東からの影響がみられるのです。

中山道と北国街道

 関東圏との結びつきは、新幹線開通よりずっと昔からありました。それが中山道です。
 五街道(→詳しくは こちら から)の中では東海道と並んで知られていますが、東海道よりも距離が長く(全長は約135里(=約540km)で五街道中最長)、東海道五十三次(五十三次とは、宿場が五十三あったという意味)に比べ、中山道は六十九次。単純な距離の長さだけでなく、中山道には碓氷(長野県)などの難関、険しい道のりがあったため、宿場も多かったのですが……東海道は河川の氾濫(※1)で予定日時に到着できないことがあったため、予定する日時に確実に着きたい場合には、東海道より中山道を通ることのほうが多かったようです。例えば幕末、孝明天皇の妹・和宮が14代将軍家茂に降嫁した際は、中山道を通りました。婚礼なので、日程を組みやすい中山道が選択されたということになります(※表街道である東海道で、反幕府勢力の暴動が起こる可能性があったからともいわれています)。
 東信地域に暮らしていた人々は、冬の農閑期には中山道を通り、江戸で出稼ぎをしていたといいます。出稼ぎ先の江戸でからかわれたので信州人が卑屈になったという、まことしやかな話もありますが、昔から関東圏と接していた東信地域の人々は、長野県内で「最も信州人らしくない」といわれていたりもします(因みに北信=長野市などの人は、東北地方の人と気質が似ているのだそうです)。
 佐久地域にある中山道の宿駅には、軽井沢・沓掛・追分・小田井・岩村田・塩名田・八幡・望月・芦田があります。
 現在も「新幹線あさま」が軽井沢、佐久平、上田という東信地域を通って長野(北信)へ辿り着くように、東信と北信は昔から同じ県内(国内)では交通が便利でした。これは余談ですが、長野県内では「東北信」「中南信」といった区分がされていて、東北信の車はナンバープレートが「長野」、中南信の車はナンバープレートが「松本」であることがほとんどです(諏訪ナンバーも登場しましたが)。そのため、関東地方ほどではないにしても、東信は北信を経由して東北地方との接点も見られます。
 信州から東北地方へ抜けるには、「北国街道」が用いられていました。北国街道は脇街道で、追分宿で中山道と分岐し、小諸・上田・長野を経て新潟県に入り、直江津で北陸道と合流する街道でした。また、北国街道と篠ノ井宿(長野市)で分岐し、松本宿を経て洗馬宿(塩尻市)へ至る道は「善光寺街道」と呼ばれました(「北国西街道」とも)。善光寺街道はその名の通り、主に善光寺(長野市)へ参拝するために用いられた街道です。
 北国街道は、善光寺参拝への主要街道であったと同時に、佐渡から金を運ぶ道筋であったため、五街道に次いで主要な街道であったともいわれます。

※1……富士、安倍、大井、天竜などはよく氾濫し、洪水時には交通止めがあったそうです。特に有名なのは大井川の河渡しで、大井川は船での渡川が幕府に禁止されていたため、人足に頼んで川を渡してもらったそうです。人足の料金は、川の水位によって異なりました。

参考

 『広辞苑』第五版(岩波書店)、『百科事典マイペディア』(日立システムアンドサービス)、『知れば知るほど新発県 なるほど地図帳 長野』(昭文社)、江戸文化歴史検定協会・編『江戸文化歴史検定公式テキスト【上級編】』