五街道

 全国的な宿駅制度は慶長6年(1601)に始まりました。元和元年(1615)「武家諸法度」により参勤交代が義務づけられると、東海道を中心に交通量が激増したため、幕府が諸国の交通網を整備しました。これにより東海道に宿場ができ、寛永初年までにほぼ53次が整いました。
 次いで中山道日光街道(日光道中)・甲州街道(甲州道中)・奥州街道(奥州道中)ができ、これらの街道を「五街道」と称しました。
 五街道以外の街道は「脇街道」または「脇往還」と呼ばれ、そのうち伊勢路(参宮街道とも。東海道四日市の追分で分岐)・中国路(西国街道・山陽道とも。起点は大坂あるいは京都、終点は下関あるいは豊前の大里)・佐渡路(江戸と佐渡を結んだ街道。金銀輸送路)・北国路(中山道鳥居本で分岐、越前へ入り、加賀・越中・越後および出羽方面に至る)・羽州路(秋田道。羽州街道。奥州街道の桑折宿から分岐、出羽に入り、陸奥の弘前・三厩に至る。出羽・陸奥大名の参勤交代路)・三国路(中山道高崎宿から分岐、越後に至る街道。現在の国道17号)などが主要とされました。

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旅の速度

 江戸時代の旅人は、1日で男性が約10里(約40km)、女性が約8里(約32km)歩いたといいます。一般的な男性は約13日前後で、女性は16日前後で江戸~京都間を踏破したことになります(女性の場合、1日に歩ける距離が約28~31kmで、17~18日前後かかるという見方もあります)。
 また、大名行列は約12日(1日約39~43km)で、飛脚は6~7日(1日約83km)で、幕府公用の継飛脚は約3日(1日約161km)で、江戸~京都間を歩ききったといいます。

宿の種類

 貴人の旅宿として、本陣脇本陣がありました。本陣は公共機関であり、宿泊者の身分に制限がありましたが、脇本陣は空いている時は一般庶民も宿泊できました。本陣・脇本陣の数は大名行列の交通量を示しており、例えば中山道は通行大名数が少なかったため、本陣・脇本陣も少なかったようです(中山道の宿場である高崎・岩村田には、本陣・脇本陣ともに存在しなかったようです)。
 一般の旅人が泊まる、飲食を供する宿屋を「旅籠屋」と呼びました。これらは飯盛女が置かれていることが多かったため、「飯盛旅籠」と呼ぶこともありました。逆に、飯盛女を置かない旅籠屋は「平旅籠屋」と呼ばれ、区別されました。東海道53次のうち、公認の遊女がいたのは府中・吉田・岡崎・宮・四日市・大津、残りの宿場にいたのはすべて飯盛女でした。因みに、東海道53次のうち、箱根・原・江尻・鞠子・掛川・舞坂・新居・坂下・土山・水口・石部には飯盛女がいませんでした。
 上記の宿のほか、燃料費のみを払い、持参した米で自炊する安い宿屋があり、これは「木賃宿」と呼ばれました。

旅装

 武士は野羽織・野袴で、黒の塗笠に羅紗合羽を着用しました。大小(刀)にも羅紗の柄袋をかけ、乗馬の際は塗笠を菅笠に代えたそうです。
 百姓・町人も菅笠をかぶり、小倉織もしくは肥後木綿の半合羽を着用し、道中差に羅紗の柄袋をかけました。下半身は股引・脚絆に草鞋を履き、着物の裾を端折りました。
 女性は頭巾や手拭いをかぶることで髪を砂埃から守り、菅笠を持ちました。また、女旅では必ず杖を持ったそうです。着物の裾は短く、手甲・脚絆を着けました。白足袋を履いたのも女性の旅装の特徴です。

関所

 江戸時代の関所は「入り鉄砲に出女」を厳重に取り締まりました。
 東海道の箱根、中山道の碓氷、奥州の三関(勿来・白河・念珠)などが有名です。
 通行には「往来手形」、女性は特に「女手形」という手形が必要でした。

参考

『広辞苑』第五版(岩波書店)、『日本語知識辞典』(学習研究社)、『時代考証事典』(新人物往来社)