江戸時代関連の雑学—江戸時代の文化編

三都気質

 江戸時代、江戸・京都・大坂は「三都」あるいは「三ヶ津(さんがのつ)」と呼ばれ、それぞれが特色のある都会とされていました。有名なのが柳亭種彦の「京の着だおれ・大坂の喰だおれ・江戸の呑だおれ」という評価でしょうか。
 江戸は最大の城下町で政治の中心、京都は歴史を持つ古都であり宗教・学問・文化の中心、大坂は「天下の台所」とも呼ばれる商業経済の中心として、それぞれ特徴がありました。

貨幣—江戸は金、京坂は銀

 江戸時代には計数貨幣(所謂「小判」がこれに相当)と秤量貨幣(丁銀・豆板銀)があり、江戸では金、大坂(上方)では銀が専ら用いられ、銭は両方で用いられていました(金銀は主に公家や武家、庶民は主に銭を用いたそうです)。このシステムは、「三貨制度」と呼ばれています。
 当初は金1両=銀50匁=銭4貫文(1貫文=1000文)でしたが、時代によって変動がありました(幕末・慶応年間には、金1両は最高で銭10貫文にもなったそうです)。
 因みに、明治初年代でも寛永銭1文は1厘(1000分の1円、10分の1銭)で通用しました。
 庶民の貨幣の目安は概ね「銭100文でどのくらい物が買えるか」にあり、1両2分もあれば5人家族が1ヶ月何とか暮らしていけたといいます。
 換算法は、

 金1両(1両小判)=銀50〜60匁(丁銀・豆板銀)=二分金2枚=一分金・一分銀4枚=二朱金・二朱銀8枚=五匁銀12枚=一朱金・一朱銀16枚=銭4〜10貫文

 となっていました。
 金銀の使い分けは主に江戸・京坂の違いの他、上級武士は金貨、下級武士や商人が銀貨、その他一般庶民は銭貨を用いるという違いもありました。

江戸の範囲

 江戸と諸国とを結ぶ五街道(陸路)や、船着き場(海路)の整備により、3代将軍家光の頃、江戸は大きな発展を遂げました(因みに、参勤交代が義務づけられたのも、この家光の時代です)。江戸の町はどんどん増え続けたため、江戸の範囲も拡大していったといいます。
 寛政3年(1791年)頃には、江戸の範囲は「江戸城より4里(約16キロメートル)四方が府内」という大まかな目安があったようですが、文政元年(1818年)地図に朱色の線を引き、そこから内を府内としました(この朱色の線は、「朱引」と呼ばれます。因みに、町奉行の支配した範囲は、黒い線(墨引)で示されています)。
 それによれば、江戸の範囲は、北は荒川・石神井川下流、東は中川、南は目黒川、西は神田上水の内側となっています。
 「明暦の大火」(1657年)によって、大名屋敷の江戸城城外への移転、寺社の移転などが行われたため、江戸が拡大し、百万都市となったともいわれています。

江戸の町割り

 江戸はよく「八百八町」などと言い表されます。これは町が多いことの喩えで、実際は、八百八町を遥かに上回る千六百町があったといいます(18世紀頃)。
 江戸はその七割が武家地で、その大半は拝領屋敷(=上屋敷・中屋敷・下屋敷の総称)。尾張徳川家は30箇所の屋敷地を持ち、8箇所の抱屋敷(拝領屋敷に対し、町人・百姓から土地を買い取った屋敷。拝領屋敷と違って売買可能)を持っていたといいます。ただし、財政上の都合から中屋敷を持たない藩、下屋敷を返上する藩などもあったそうです。
 町人地は現在の神田、日本橋周辺などが主で、町人地と寺社の占める面積がそれぞれ一割五分ずつ。
 江戸では、身分によって住む地域も明確にされていました。

江戸城天守閣

 江戸城の天守閣が、明暦の大火で焼失し、以後 江戸時代を通じて再建されることがなかったのは有名な話です。
 明暦の大火があったとき、名君として知られる会津藩主松平氏の祖・保科正之(3代将軍家光の異母弟)は、町人の家の再建のため幕府の金庫から16万両を出して復興に当てる、参勤交代中の大名を江戸から帰らせる(江戸の人口が減り、火事によって高騰していた米価が下がった)などの対策を講じています。
 実はこのとき、保科正之が江戸城天守閣の再建に異議を申し立てたのです。
 「太平の世では展望台にしかならない天守閣を再建するよりも、江戸市中で住む家を失った町人たちの家を再建することのほうが急務である」(※意訳)という保科正之の意見が採用され、天守閣の建設は延期されました。
 その後も結局 天守閣は再建されず、現在もその石垣が残っているのみとなっています。

江戸時代のことば

 江戸時代は、性別のみならず、年齢や身分によっても使うことばが異なりました。
 京坂(上方)と江戸といった地域差(方言)を示したものとして有名なものには、『浮世風呂』があります。これは江戸出身の女房と京出身の女房とが、江戸と京のことばの違いで言い合う面白おかしい内容となっています。江戸時代には言語の地域差(地域方言)に注目が集まっていたようで、それは主に上方と江戸の対立が念頭に置かれていたらしいことが、『浮世風呂』から窺えます。
 年齢によることばの違いは主に「幼児語」に代表されます。「ばば」(大便や汚いもののこと。「ばばっちい」はここからきています)、「ののさま」(日神神仏などを表す語。「のの」とも)、「おつむ」、「おんぶ」などが幼児語です。
 性別によることばの違いは主に女房詞(宮中奉仕の女官が使っていたことばで、後に町家の女性にまで広がったことば)が挙げられます。幼児語の中には現代においても用いられていることばがありますが、女房詞にも現代でも用いられていることばがいくつか見られます(おかず、おひや、おでん、青物 等)。
 女房詞には一定の造語パターンがあったようです。特に面白いのは「もじ言葉」。これは、物の名の下に付けて、その物を婉曲的に表現した用法です。現在も用いられている「しゃもじ」(杓子)などがそうです。この他、「あもじ」(姉)、「いもじ」(烏賊)、「うもじ」(内方=他人の妻の敬称または宇治茶のこと)、「えもじ」(海老またはエソ=狗母魚)、「おくもじ」(茶漬け飯)、「おはもじ」(恥ずかしいこと。はもじ)、「おめもじ」(お目にかかること。めもじ)、「かもじ」(母または妻。「髪」を意味する「かもじ」もある)、「くもじ」(還御または酒、あるいは漬けた菜)、「こもじ」(鯉または小麦)、「すいもじ」(好いた相手)、「すもじ」(寿司)、「そもじ」(あなた、そなた)、「ともじ」(父)、「にもじ」(にんにく)、「ぬもじ」(盗人)、「ねもじ」(練貫、練り絹、葱)、「ふたもじ」(韮)、「ふもじ」(鮒または文)、「ほもじ」(干飯)、「みもじ」(味噌)、「ゆもじ」(浴衣)、「りんもじ」(悋気。やきもち)などがあります。
 他に有名な女房詞には頭に「お」を付けるものがあり、強飯が「おこわ」となり、田楽が「おでん」となったのがこの例です。
 身分によることばの違いは、主に武士の使うことばに見られました。一人称でも「みども」(身共。同輩やそれ以下の相手に対し、自分を表すのに用いた)、「拙者」(武士が謙遜して使うことば。拙は「つたない」とも読む)、「おれ」(語源は「己」と考えられ、当時は男女共に用いた)、「私」、「此方」、「手前」などがあり、身分序列の厳しい武士社会の中で、相手と自分の立場によって使い分けが行われていたようです。洒落本や滑稽本に登場する武士も、町人とは異なる言葉遣いをしてキャラクターを立たせています(ただし、個性を強調するため、殊更「武士らしい」ことばを選んでいる場合もあるようですが)。
 武士言葉が成立したのは、(帯刀可能であるなどの)武士という特殊な身分ゆえという理由の他に、参勤交代などによって地方から江戸へ向かう必要性が生まれ(つまり方言差という意志伝達の障壁を取り除くため)、武士同士で通じる共通語が必要であったためではないかといわれています。
 余談ですが、軍隊などで用いられる「〜であります」などという固い言い方は山口県の方言だそうです。明治時代、新政府の中心であった長州のことばを、軍隊、特に陸軍内で用いたのが始まりだとか。

江戸っ子といえば……

 江戸っ子といえば花川戸助六。歌舞伎『助六由縁江戸桜』に登場する侠客で、吉原の遊女揚巻をめぐる恋敵・髯の意休と張り合います。
 助六が啖呵を切る時に「江戸紫の鉢巻きに髪は生締め、刷毛先の間から覗いてみろ、……」という台詞がありますが、江戸紫はまさに江戸の名物。江戸紫は青色がかっていたのに対し、京紫は赤みがかっていました。余談ですが、江戸時代には「あげます」を洒落て「揚巻の助六」と言い表すことばがあったようです。
 助六もその恋人・揚巻も、権力者に反抗する義侠心の持ち主。巻き寿司と稲荷寿司のセットを「助六」と呼ぶのは、助六の恋人である揚巻の名が「揚」が油揚げを連想させることから稲荷寿司、「巻」はそのまま巻き寿司を連想させることからの命名です。
 他に江戸っ子の代表と言えば、町火消がいます。
 町火消は、明暦の大火の翌年に発足した町人の自衛消防組織。江戸の消防組織には、町火消のほか、定火消・大名火消がありましたが、「いろは四十七組(後に、本組が加わり四十八組に)」+本所・深川の十六組からなる町火消が町人にとっては憧れの的。当時の火消しは、火災が拡がるのを防ぐために家を破壊するのが主だったため、町火消の主力は町屋構造をよく知り、かつ屋根の上の活動に慣れていた鳶職だったそうです。
 町火消は「いろは四十七組」といわれますが、語感の悪い字(へ組・ら組・ひ組)はそれぞれ百組・千組・万組に置き換えられました。
 それぞれの組によって持つ纏も異なったようで、例えば「い組」は「芥子の実」+「升」で「消します」の纏。これは大岡忠相の考案だとか。

名前のこと

 江戸時代、名字を名乗ることは基本的に武士のみの特権でした(武士以外でも、何らかの功績を残した人や、富裕な商人などは名字を名乗ることができました)。
 それに加え、武士は名前も諱(いみな。本名のこと。実名敬避の考えによって通常 本名は呼ばれませんでした)、幼名(元服までの呼び名)、通称(元服後の呼び名)、字(中国風の名前)、綽名(あだな。しゃくめい)などがありました。更に出家すれば法名、亡くなれば戒名などがありました。他には学者・文人などが用いる「号」などもあります。女性は、遊女であれば源氏名(『源氏物語』に由来)、深川芸者などは権兵衛名を用いました。
 生まれたときに幼名をつけられ、元服すれば本名(諱)を名乗り、けれども本名は諱(忌み名)であるから滅多に呼ばずに通称や綽名を用いました。字は成人あるいは許婚ののち用いられたとされ、本名は主に目上の人に名乗り、他には字を称したともいいます。
 加えて、一定以上の役職に就くと朝廷から官位が授けられ、その官位名が通称として用いられることもあります。例えば「左衛門尉」(遠山左衛門尉)などがそうです。
 名字を名乗れるのは武士だけでしたが、商人であれば屋号、職人であれば職種または町名を名前の前につけて区別されました。

女性の名前いろいろ

 現在も用いられる「源氏名」。これは遊女が『源氏物語』五十四帖の巻名になぞえて名前をつけるもので、妓楼に代々伝わる名前でした。『源氏物語』の巻名だけでは数が限られるので、それぞれ風雅な名前をつけられる場合もありました。
 一方で、辰巳芸者は源氏名ではなく「権兵衛名」というのを用いたというのは上述の通り。権兵衛名は男名で、辰巳芸者が男名を用いたのは、男芸者を偽装して、遊里への幕府の捜査の目をごまかす狙いがあったためだとか。
 宿場女郎などは一般市井と同じく「おの字名」で呼ばれたそうです。「おの字名」とは、例えば「お七」「お仙」など、「お○○」という呼び方のことをいいます。
 一般市井の女性はこの「おの字名」を普通に用いていますが、大奥では将軍の側室以上でなければこの「おの字名」で呼ぶことはできなかったそうです。

髷のこと

 「江戸時代の結髪」では主に女性の髪型についてしか触れていないので、男性の髪型についても少し触れてみます。

 ◆月代は、もとは、武士が戦場で兜をかぶると熱気がこもるために剃ったのが始まり。そのため、古くは戦争が終わると髪を伸ばしましたが、後に常時剃るようになったといいます。月代は平安時代からあり、鎌倉期に広まったようです。「武者(むさ)の世」になったのは鎌倉時代から。
 ◆有名な「ちょん髷」は主に老人が結う髪型で、名前の由来は髪の量が少なく、形が「ゝ(ちょん)」という字に似ていたことからといわれています。ただし、「ちょん髷」という嘲笑を含んだ名称は、散髪令が出た明治期のものだそうです。
 ◆文金風という髪型は、女性の髪型である「文金高島田」にも応用された髪型。この髪型が考案されたのが、元文年間の文字金(ぶんじきん。「文」の字の極印のある金貨のこと)が始まった頃だというので、それに因んでこの名がつきました。豊後節の祖・宮古路豊後掾が始めた髪型といわれます。
 ◆本多髷という髪型は、文金風の変化したもので、本多忠勝家中の武士の髪型に起源があるといわれています。本多忠勝は、徳川家康四天王の一人で、伊勢桑名城主になった人物です。
 ◆幕末期に総髪(月代を剃らない髪型)が増えたのは、国事に奔走する志士たちには、ゆっくり月代を剃る暇もなかったためではないかといいます。総髪は主に学者、浪人、山伏などが用いた髪型。月代を剃らないのは基本的に恥ずかしいこととされ、先述した職業の人々のほか、月代を剃らないのは病人などでした。尊皇攘夷を唱える志士たちは、この他「茶筅総髪(尊皇風)」という無造作な髷を結ったそうです。

 文明開化を表すことばに、「散切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」があります。更に、「総髪頭を叩いてみれば、王政復古の音がする」。これは志士に総髪が多かったということを表しているのでしょう。
 因みに、江戸時代までの結髪については……「半髪頭(※)を叩いてみれば、因循姑息の音がする」と言い表されています。

 ※……従来の結髪のこと。

切腹

 割腹、屠腹などともいいます。武士だけが行うことの許されたいわば「名誉刑」が切腹です。
 切腹を行うのは、昔はお腹の中に魂があると考えられていたためです。武士は死に臨んだときも自らを律することができるとされていたため、魂があるとされた腹を切るこの「切腹」が武士独自の刑となりました。ただ、切腹ができない武士もいたため、切腹と斬首の中間にあるような「扇腹(扇子腹とも)」といった刑罰も行われるようになりました。

春画

 「春画」といえば、男女の交わりを描いた絵のことを指します。が、この「春画」という言葉は、明治期以降の用語だそうです。
 鎌倉中期の説話集『古今著聞集』(橘成季)には「偃息(おそく。男女同衾の意)図の絵」という名で見られ、江戸期には「枕絵」「枕草子」「わ印(笑い絵=枕絵の隠語)」と呼ばれたそうです。
 江戸時代は割と性風俗大らかな時代であったようで、好色本も流行していますが、1790年に禁令が出て、「あぶな絵」という美人画との中間的な絵となって盛行、「枕絵」は嫁入り道具の一つにもなったそうです(当時の性教育のようです)。因みに、「あぶな絵」を漢字にすると「危絵」と書きます。枕絵のような美人画のような際どい絵であることからの命名でしょうか。

ありんす国

 吉原の地名は、元吉原が葺屋町に建設されることになったとき、葺屋町一帯に葦が生えていたことに因むといいます。「葦」が「悪(あ)し」にかかりよくないので、悪を吉に変え「吉原」にしたのだとか。
 江戸の公娼地吉原は「ありんす国」とも呼ばれました。これは吉原特有の「里言葉」(遊里で用いられる語彙・語法。廓言葉とも)に因んでいます。もとは遊女の生国方言を隠すために生まれたといわれ、嶋原に始まり吉原に移ったとされます。
 里言葉の代表的なものに、「あります」=「ありんす」、「わたし」=「わちき」があります。ただ、里言葉は妓楼や、時代によって違いがあったようです。
 富裕または上流階級の女性が用いた「ざます言葉」も実は里言葉で、「ざます」とは吉原で「です」のこと。それでは何故、遊女のことばが上流階級の女性に使われたのかというと、これには「明治新政府の高官が吉原で遊んで覚えたものを、家庭に持ち込んでそこから波及した」とする説と、「吉原の遊女が落籍され、明治新政府の高官の妻となったため」という説とがあるようです。
 因みに新吉原のあった場所は、現在の台東区千束四丁目。吉原神社、吉原弁財天、吉原公園など、地名としては残っています。東浅草小学校近くに「吉原大門」の信号があり、ここから南西方向へ行ったところがかつての新吉原内です。新吉原から北西方向には「浄閑寺」があります。
 元吉原は現在の日本橋人形町〜富沢町にありました。明暦の大火で焼失し、それ以後は浅草「新吉原」が江戸の官許遊里となります。
 何度か火災で焼失しますが、同じ形に再建されたので町並みは変わらない吉原。江戸町一・二丁目、京町一・二丁目、角町の合わせて五町から構成されていたので、俗称を「五丁町」ともいいました。

江戸遊里別名いろいろ

 吉原の別名は上述の通り、「ありんす国」「五丁町」などがあります。他に、江戸城の北に位置したことから、北国、北里、北廓、北狄、きた、などとも呼ばれていました。
 辰巳芸者で有名な深川は、江戸城の南東(辰巳)にあったことから辰巳、他には東夷などの呼び名がありました。品川はみなみ、南川(なんせん)、南蛮など、新宿は西戎などと呼ばれていました(京都嶋原も同様、御所から南西方向に位置したため坤郭(こんかく)という別名があったようです。坤は未申すなわち南西のこと)。
 こうして見ると、吉原・深川・品川・新宿が東西南北で対比されており、その繁栄ぶりがうかがえます。

名妓

【高尾太夫】
 有名な太夫の筆頭に「高尾太夫」がいます。高尾太夫は吉原第一の名妓を指しますが、高尾という名は三浦屋お抱え第一の遊女の名跡(源氏名のこと)として襲名される名前であり、何人もの「高尾太夫」が存在します(源氏名は襲名されることが多いようです)。
 蒔絵師西条吉兵衛に請け出されたのが西条高尾。吉兵衛は刑死したので、高尾は後に尼となったといいます。
 仙台伊達綱宗に身請けされたのが仙台高尾。俗説では、伊達綱宗に従おうとしなかったので、船上で斬り殺されてしまったとか。姫路城主榊原政岑に身請けされたのが榊原高尾。榊原政岑は大名でありながら堂々吉原に通った咎で左遷されてしまい、高尾はそれを己の罪として尼になってしまったといわれます。
【夕霧】
 歌舞伎「廓文章」(通称「吉田屋 夕霧」)でも知られるのが大坂新町の太夫・夕霧。豪商の息子・藤屋伊左衛門との話で知られています。
 藤屋伊左衛門は夕霧と馴染み、銀七百貫の借金をしたため親から勘当されました。その伊左衛門が零落した姿で夕霧の前に現れたところ、夕霧は目に涙を浮かべました。二人はそこで、お互いの思いの丈を語り合ったといいます。
 後日、夕霧を請け出そうとする人があり、夕霧がその相手が誰かを尋ねたところ、請け出そうとする相手は藤屋伊左衛門だということでした。伊左衛門は、実は勘当を許され家に帰っていたのですが、夕霧の心中を確かめるため、零落した姿で夕霧にまみえたということです。
 しかし夕霧は、身請けの話を喜ばしいと思いながらも、心中を試されるなど疑われては熟縁はないでしょうと答え、伊左衛門もその答えに仕方なくなり帰って行ったといいます。

江戸吉原七不思議

 怪奇的な意味合いの「七不思議」ではなく、駄洒落や滑稽なものがほとんどです。

 大門あれど玄関なし ①
 茶屋あれど茶は売らず ②
 角町あれど中にある ③
 揚屋あれど揚げはなし ④
 やり手といえど取るばかり ⑤
 年寄りでも若い衆 ⑥
 河岸あれど魚なし ⑦
 水道あれど水はなし ⑧

 ①「大門(おおもん)」とは吉原大門のこと。大門は建物の門ではなく、従って玄関もないという駄洒落。
 ②茶屋とは非公認の売春所であり、茶屋とはいうものの茶の店ではないという駄洒落。
 ③角(すみ)町と、端の意味の「隅(すみ)」を引っかけて、「名前は隅なのに、中にある」という駄洒落。
 ④揚屋は遊女と遊興するための施設で、揚げ物を売る店ではないという駄洒落。
 ⑤遣り手とは、妓楼のことを取り仕切る老婆のこと。何かを「やる」人ではないという皮肉。
 ⑥妓楼で働く男性従業員は、年齢に関係なくみな「若い衆」と呼ばれたことへの駄洒落。
 ⑦河岸とは、吉原周囲のお歯黒溝に面した格式の低い遊女屋「河岸見世」のことで、魚河岸を指すわけではないという駄洒落。現在も飲食・遊興する場所は特に「河岸」などと呼ばれます。
 ⑧当時は吉原の突き当たり・町はずれに水道尻という俗称があったようですが、水道は通っていないという駄洒落。

京嶋原七不思議

 入り口を出口といい ①
 堂もないのに「どうすじ」という ②
 下へ行くのを上之町 ③
 上へ行くのを下之町 ④
 橋もないのに端女郎 ⑤
 社もないのに天神様 ⑥
 語りもせんのに太夫さん ⑦

 ①③④入口を出口と呼んだのは、嶋原の入口(嶋原大門)が鬼門方向にあり、縁起が悪いとされたため。「下へ行くのを上之町、上へ行くのを下之町」も、入口が鬼門方向にあったことから、廓内で南北東西を逆にしたことに因みます。
 ②堂筋は嶋原の目抜き通り。お堂はないが堂筋という名前という駄洒落。
 ⑤端女郎は嶋原であまり低くない位の女性。橋があるわけでもないのに「はし」女郎という駄洒落。
 ⑥天神は太夫に次ぐ上級位の妓女。揚げ代が銀25匁だったので、北野天神の縁日(25日)にかけてこう呼ばれたともいわれます。神様である天神様と、天神職の女性を引っかけた駄洒落。
 ⑦太夫は嶋原最高位の妓女ですが、浄瑠璃で語る人も指すので、それと引っかけた駄洒落。因みに、有名な竹本義太夫も太夫です。

深川新地

 江戸の岡場所の代表格であった深川。ここは「辰巳」と呼ばれました。その理由は、江戸城の辰巳の方角(南東)に位置したことから。
 そこから生まれたことばに、「辰巳上がり」(深川遊里出身であること、「辰巳芸者」(深川遊里の芸者。気っ風が良く、張りがあるとされた。俗称「羽織芸者」=通常は男性しか着ない羽織を纏ったことから)、「辰巳言葉」(辰巳芸者が用いたことば)などがあります。
 因みに、深川の仲町・大小新地・表裏櫓・裾継・新古石場・向土橋・土橋が「深川七場所」と呼ばれていました。

花魁道中

 太夫職の遊女が、置屋から揚屋入りすることをいいます。吉原では宝暦年間に太夫職が消滅したので、それ以後は呼出という階級の遊女が揚屋入りしたのを指します(嶋原では太夫職は現在も消滅していないので、嶋原の道中は正しくは「太夫道中」)。
 そのときの歩き方が、有名な「八文字」。八文字には、内八文字外八文字がありますが、内八文字は主に京嶋原で、外八文字は江戸吉原で行われたそうです。
 江戸吉原も当初は内八文字でしたが、「勝山髷」で有名な遊女勝山が外八文字に踏んで以後、吉原では外八文字で歩くようになったとか。
 男装を好んだ勝山の始めた「外八文字」は、内八文字よりも活発な動きをする歩き方だそうです。

たまやかぎや

 天下泰平の江戸時代、火薬も戦争には用いられず、主に花火などに用いられるようになりました。
 隅田川の花火は享保18年に始まりました。前年の飢饉による死者の霊を慰め、悪疫(この時はコレラが流行していたようです)退散を祈る水神祭で花火を打ち上げたのが名物となったのが始まり。ただ、この時は花火の数は20発前後で、花火の種類は上空に光の放物線を描く「流星」というロケット式花火のみだったようです。
 「たまや、かぎや」の掛け声の由来である玉屋は、両国広小路吉川町の花火屋で、七代鍵屋の手代・清七が開店した店。玉屋が創業されてからは、鍵屋よりも玉屋のほうが隆盛となりましたが、天保14年に火事を出し、玉屋は一代で断絶しました。ただし現在でもかけ声は「たまやかぎや」で、「たまや」が優先。
 因みに当時の花火は、現在のように化学薬品がなかったのでオレンジ一色でしたが、文化・文政頃には花火の種類が数多く考案されたようです。

ベストセラーになった料理本

 天明2年(1782)、醒狂道人何必醇(せいきょうどうじんかひつじゅん)という人が著した『豆腐百珍』という豆腐料理百種の解説書がベストセラーになり、続編も出版されました。この後、所謂「百珍もの」と呼ばれる本がブームとなり、大根や鯛などの百珍ものが出版されました。
 その他、『料理珍味集』(1764)という、珍しい料理を紹介した料理本も出版されました。珍しいというものには、江戸や大都市以外の地方で食べられている、いわば郷土料理が載せられていたということです。

江戸東京のあれこれ—場所・建物編—

 江戸と現在の東京都の地域は一致しませんが、江戸近郊の地域も含めました。

●日本橋:
 東海道の起点となった日本橋。現在の日本橋はコンクリート橋。
 日本橋がある中央区は現在 百貨店や高級専門店が建ち並んでいますが、江戸時代も町屋が並ぶ商業地帯でした。
 掛け値なし・現金売買という商法で発展した有名な「越後屋」(三越の前身)は日本橋駿河町にありました。
 越後屋のほか、「下村大丸屋」、「大村白木屋」、「松坂屋」など代表的な大店も日本橋にありました。
 因みにこれらの店は、上方の商人が江戸に進出してきて成功した例です。
●佃島:
 現在の東京都中央区。寛永年間(1624〜44)に摂津佃村の漁民が移住し漁業に従事、日本橋の魚市場に出荷していました。
●八丁堀:
 寛永年間(1624〜44)長さ八町(一町は60間で、現在のメートル法に換算すると109メートル強)堀割を作ったのが地名の由来とされています。江戸時代には町奉行の与力・同心の組屋敷があった場所で、時代劇でもお馴染みです。現在は商社などが多いようです。
●麹町:
 現在の東京都千代田区。江戸時代には、甲州街道沿いに半蔵門から四谷見付まで商店街が並んでいました。現在は高級住宅地です。大塚善心寺(現在の文京区)から出火した「元禄の大火」の被害はここにまで及んだといいます。
●丸の内:
 現在の東京駅周辺。江戸時代は江戸城の外郭をなしていて、大名の屋敷町でした。現在は官公庁や銀行、企業の事業所が集まる日本経済の中枢部です。
 因みに「丸の内」とは、城郭などの本丸の内のことも意味します。
●大手町:
 地名は江戸城大手門(城の正門)門前であったことに由来。江戸時代は大名屋敷町でした。
●芝:
 現在の東京都港区。江戸時代には寺社・武家地として有名でした。徳川家の菩提寺である増上寺、四十七士のお墓で有名な泉岳寺、江戸市中を見渡せることで有名な愛宕山(と愛宕神社)などがあります。因みに、「芝っ子」と「神田っ子」は江戸っ子の代表であったそうです。
●新宿:
 地名は元禄期に、甲州街道の第一宿である「内藤新宿」を設けたことに由来。この宿場は江戸四宿(日本橋を起点とする五街道最初の宿場町が「江戸四宿」で、品川のほか、甲州街道の内藤新宿、中山道の板橋宿、日光街道・奥州街道の千住宿がそれぞれありました)の一つとして栄え、宿西端から青梅街道に分岐していました。因みに「内藤新宿」の「内藤」は、信濃国高遠藩主内藤氏の屋敷がここにあったことに由来しています。
 あまりにも遊興化が進み、宿場の認可を取り消されたこともあるそうです(享保3年〜明和9年まで)。
●小石川:
 現在の東京都文京区。江戸時代は武家屋敷と寺院が多く、小石川薬園と小石川養生所があったことで知られています。
●下谷:
 「上野」が台地を指すのに対し、低地であることからこの名がついたとされています。南部は江戸時代の大名屋敷・武士町で、北部は小さな商工業地区でした。
 現在では商業地・住宅地域です。
●浅草:
 浅草寺の門前町として栄えました。因みに新吉原は浅草に近かったため、そのことも浅草が盛り場になった要因の一つではないかといわれます。
 御存知のように、現在でも有名な観光地です。
●蔵前:
 江戸時代には幕府の米蔵が並び、ここから旗本や御家人の俸禄(米)が支給されていました。
 蔵前という地名は、米蔵が並んでいたことに由来。
●山谷:
 江戸時代は奥州街道沿いの木賃宿密集地。
 因みに、千束日本堤下三谷(現在の台東区千束)に新吉原が移転したことから、「山谷(または三野・三谷)」といえば新吉原を指す場合もあります。
●両国:
 地名は武蔵・下総両国を結ぶ地であることに由来。明暦の大火で知られる回向院(明暦の大火で亡くなった人を葬るために回向院が建てられたといわれます)で相撲興行が行わるなど賑わい、国技館が建てられました。
●深川:
 現在の東京都江東区。富岡八幡宮や深川不動尊の門前町として栄え、明治期には洲崎に遊郭ができました。富岡八幡宮・洲崎弁天で知られていました。
●本所:
 江戸時代半ば、江戸市街拡大のため江戸市中に加えられました。
●木場:
 地名は、堀割や池が多く木を蓄えるのに適していたため、元禄年間(1688〜1704)日本橋の材木問屋が木置き場としたことに由来。
 材木問屋が多いことで知られ、「木場千軒」といわれるほど栄えました。
●品川:
 品川宿は東海道の第一宿として栄えました(江戸四宿の一つ)。後に水茶屋が建ち並ぶようになり、品川新町と呼ばれる遊里となりました(「北の吉原、南の品川」といわれるほどで、準公認の遊里でした)。
●板橋:地名は石神井川に架かっていた板橋から。中山道最初の宿場町。

[寺社仏閣]
●上野寛永寺:
 戊辰戦争の一つである「上野戦争」の際に、彰義軍と官軍が戦ったことで有名なお寺。徳川家の菩提所でもあります(増上寺も徳川家菩提所です)。上野戦争で焼失し、現在の規模は当時の10分の1ほどとなっています(当時は、現在の上野公園も寛永寺の領域でした)。
 号の「東叡山」とは、京都比叡山(延暦寺)に対する「東の比叡山(延暦寺)」という意味で名づけられたもので、江戸城の鬼門を封じるために創建されたといいます(比叡山延暦寺は京都御所の鬼門封じのため創建されました)。
●日枝神社:
 徳川将軍家の産土神で、江戸第一の大社。かつて「山王権現」と呼ばれていました(正しくは日吉山王神社)。6月15日の例祭・山王祭(天下祭、御用祭とも)の祭列は江戸城内にも入り、神田祭とともに「江戸二大祭」とされています。
●於岩稲荷:
 『四谷怪談』で有名なお岩さんが住んでいた所だとか。
●市ヶ谷八幡:
 太田道灌の勧請といわれています。門前に岡場所があったことでも知られています。
●富岡八幡宮
 応神天皇が主神。深川祭は江戸三大祭として有名です。
●深光寺:
 『南総里見八犬伝』の著者・曲亭馬琴のお墓があります。
●伝通院:
 家康の生母・於大の方の菩提寺。千姫や清河八郎のお墓も。
●円乗寺:
 八百屋お七のお墓があります。
●麟祥院:
 春日局が晩年居住したお寺であり、菩提寺でもあります。
●神田明神:
 大己貴命が主神で、平将門を合祀している神社。武州の総社、城下の総鎮守府とされていました。5月15日(もと9月15日)の例祭・神田祭は天下祭・御用祭とも呼ばれ、日枝神社の山王祭とともに江戸二大祭とされています。山王祭は山の手の祭で武家が多く参加したのに対し、神田祭は下町の江戸っ子のお祭りでした。
 江戸城の表鬼門に当たり、その鬼門封じとして建てられたのが、この神田明神と湯島聖堂。そして聖堂に設けられた昌平坂学問所が、現在の東京大学の前身です。
●谷中天王寺:
 もと感応寺といい、富くじ興行で知られていました。
●誓教寺:
 浮世絵師・葛飾北斎のお墓があります。
●愛宕神社:
 徳川家康が関ヶ原の戦いの戦勝祈願をした神社。社前の急な男坂は、講談『寛永三馬術』で曲垣(まがき)平九郎が馬で登ったといわれます。江戸時代には、愛宕山上から江戸市中と海を一望することができる、当時の観光名所でした。
●真源院:
 「恐れ入谷の鬼子母神」で知られます。7月に朝顔市が開かれます。
●浅草寺:
 山号は金竜山。仲見世は江戸きっての盛り場として知られていました。
●泉岳寺:
 赤穂藩主浅野家菩提寺。浅野長矩と赤穂義士のお墓があります。
●善福寺:
 幕末には米国公使館が置かれていた場所。福沢諭吉のお墓があります。
●法眼寺:
 安産・子宝の神で知られる「雑司ヶ谷の鬼子母神」。
●護国寺:
 5代将軍綱吉が生母・桂昌院のために建立。大隈重信・山県有朋のお墓があります。
●吉祥寺:
 榎本武揚のお墓があります。
番外●靖国神社:
 戊辰戦争における官軍側の戦没者慰霊のため、明治時代に建立された「東京招魂社」が前身(明治12年、「靖国神社」に改名)。後に嘉永6年(ペリー来航の年)以降幕末15年間、国事に奔走し死亡した人々も祀るようになりました。それに加え、現在は西南戦争から第二次世界大戦までの戦没者も祀っています。

江戸東京のあれこれ—江戸時代のあの場所は今 編—

 江戸はその七割が武家地、更に言えば巨大な拝領屋敷が大半を占めていたといいます。
 「上屋敷」は地位の高い武家(主に大名)やその家族が住居とした屋敷のこと、「中屋敷」は隠居した武家や世継ぎが住む屋敷、「下屋敷」は別荘や倉庫・避難所などに用いられ、郊外にあった屋敷をいいます。

[皇居・東京駅周辺]
 皇居はかつての江戸城。現在の皇居外苑には老中や若年寄の屋敷、親藩の上屋敷がありました。
 現在も残る江戸城の遺構には、大手門、坂下門、二重橋、桜田門、半蔵門などがあります。

●一橋殿:現在の気象庁一帯には、御三卿の一つ 一橋家の屋敷がありました

[日比谷・霞ヶ関周辺]
●長門萩藩上屋敷:現在の日比谷公園。長州征伐後は建物が破壊され、更地となったそうです
●薩摩藩中(上)屋敷:現在の日比谷公会堂の向かい周辺。明治時代、鹿鳴館もここにありました
●大岡越前守上屋敷:現在の霞ヶ関駅付近
●福岡藩上屋敷:現在の外務省
●広島藩上屋敷:現在の合同庁舎、警察庁など
●尾張藩徳川家上屋敷:現在の防衛庁
 霞ヶ関は桜田門から虎ノ門にかけての一帯で、江戸時代は大名屋敷町が並んでいたそうです。現在は官庁区域で、今も昔も官僚が住んでいたことは変わりないようです。
[靖国神社・市ヶ谷周辺]
●福島藩上屋敷:現在の東京逓信病院
[神田・御茶ノ水周辺]
●広島福山藩上屋敷:現在の幽霊坂のある辺り、神田淡路町
●蕃書調所:現在の共立女子短期大学・高校
[水道橋・飯田橋周辺]
●講武所:現在の日大法学部周辺。現在の三崎町二丁目の大半がその敷地
[明治座・日本橋周辺]
●玄武館:現在の岩本町駅の辺り
●金座:現在の日本銀行
[京橋・八丁堀周辺]
●町御組屋敷:現在の日本橋兜町、大原稲荷神社周辺
●三河西尾藩上屋敷:現在の東京証券取引所
[増上寺・浜松町周辺]
●遠山金四郎屋敷:現在の新橋住友ビル向かい辺り
●浜御殿:将軍の狩場で、6代将軍家宣以降 浜御殿に。現在の浜離宮庭園。東京では唯一、海水を直接引き入れた庭園
●紀伊殿:紀州徳川家浜屋敷。現在の旧芝離宮庭園
[氷川神社・赤坂周辺]
●勝麟太郎屋敷:勝海舟が維新後に転居する以前の屋敷。現在の氷川神社の裏手。因みに、勝海舟が晩年を過ごした居宅も赤坂にありました
●長門藩毛利家中屋敷:現在の東京ミッドタウン
●日向延岡藩中屋敷:現在の俳優座
●武蔵川越藩松平家中屋敷:現在のサントリーホール
●出羽米沢藩上杉家中屋敷:現在の日本郵政公社東京支店
[新宿・四谷周辺]
●紀州徳川家上屋敷:現在の赤坂御用地(赤坂離宮迎賓館)。明治6年皇居炎上の際には仮皇居にもなったそうです
●信濃高遠藩内藤家下屋敷:現在の新宿御苑
[小石川後楽園]
●水戸藩徳川家上屋敷:現在の小石川後楽園、東京ドーム。後楽園という名前は「天下の憂に先だって憂い、天下の楽に後れて楽しむ」(『岳陽楼記』)に由来
[東京大学・湯島周辺]
●加賀藩前田家上屋敷:現在の東京大学構内。
 東京大学内にある門「赤門」は東京大学の俗称ですが、赤門とはもともとは、現在 東京大学のある場所にあった加賀藩前田家屋敷の御守殿門として建てられた門のことを指します。この門は、文政10(1827)年、13代藩主前田斉泰のもとに輿入れした11代将軍家斉の娘・溶姫のために造営されました。
 (※ 将軍から妻を迎える場合、三位以上の大名家では御殿の門を朱塗りにする慣例があったため。前田家屋敷の表門は「黒門」と呼ばれ、赤門と対比されていました)
 この溶姫と、加賀藩主斉泰(なりやす)の間に生まれたのが加賀藩最後の藩主・前田慶寧(よしやす)。母親が将軍の娘であることから戊辰戦争時には苦悩したといいます。
●越後高田藩中屋敷:現在の旧岩崎邸
[秋葉原周辺]
●伊勢津藩上屋敷:現在の神田和泉町。伊勢津藩の藩祖・藤堂高虎は名君といわれ、家康から松平姓を許されたといいます
●種痘所:現在の台東法務総合庁舎の近く
[清澄白河周辺]
●下総関宿藩下屋敷:現在の清澄庭園。豪商・紀伊国屋文左衛門の別邸「千山亭」跡
●遠山金四郎拝領屋敷:現在の菊川駅近く。以前は長谷川平蔵が住んでいたそうです
[泉岳寺・慶應義塾大学周辺]
●肥後熊本藩中屋敷:等覚寺の近く。赤穂義士大石内蔵助らの切腹地でもあります
●伊予松山藩中屋敷:現在のイタリア大使館。当時の庭園も一部残存
●肥前島原藩中屋敷:明治4年、慶應義塾が移転。現在の慶應義塾大学
●薩摩藩上屋敷:現在の芝3丁目周辺。戊辰戦争のきっかけの一つとなった場所
[目黒不動周辺]
●讃岐高松藩下屋敷:現在の国立自然教育公園の敷地内
●肥後宇土藩下屋敷:現在は畠山記念館が建っています
[青山・渋谷周辺]
●伊予国西条藩上屋敷:現在の青山学院構内
●上野高崎藩下屋敷:現在の東郷神社敷地内
●美濃部上藩下屋敷:現在の青山霊園
●宇和島藩上屋敷:現在の国立新美術館。幕末の藩主・伊達宗城が有名
[明治神宮・新宿・早稲田大学周辺]
●近江彦根藩下屋敷:現在の明治神宮御苑
●尾張犬山藩下屋敷:現在の新宿駅
●尾州殿:戸山公園周辺には、御三家・尾張徳川家の下屋敷がありました
[護国寺周辺]
●上総久留里藩下屋敷:現在の椿山荘。当時から椿の名所として知られ、当時は「椿山」と呼ばれていました
●陸奥平藩下屋敷:現在はお茶の水女子大学構内
[王子周辺]
●大和郡山藩下屋敷:現在の六義園。六義園は柳沢吉保の下屋敷跡で、明治初年、岩崎弥太郎(三菱創始者)の所有となりました。因みに「六義(りくぎ)」とは、『古今和歌集』序において紀貫之が述べた和歌の六種類の風体を指し、転じて和歌のこともいいます(和歌の「六義」は『詩経』からの転用)
●播州林田藩下屋敷:現在の染井霊園

 前橋藩、大垣藩、備中松山藩などの上屋敷は現在 ホテルになっています(それぞれオークラ、ANA、帝国)。

 明治期に東京遷都が行われたのは、江戸無血開城の結果、大名屋敷などの藩邸がほぼ無傷のまま残ることとなったので、それらを学校や中央官庁として利用することができるという利点があったためといわれます(近代的郵便制度の創設者として名高い前島密が、このことを大久保利通に建言したそうです)。

参考文献:『広辞苑』第五版(岩波書店)、『百科事典マイペディア』(日立システムアンドサービス)、山口佳紀『暮らしのことば 語源辞典』(講談社)、『日本史用語集』(山川出版社)、花咲一男『大江戸ものしり図鑑』(主婦と生活社)、大石学編『大江戸まるわかり事典』(時事通信社)、江戸文化歴史検定協会・編『江戸文化歴史検定公式テキスト【上級編】』、河合敦監修『図解・江戸の暮らし事典』(学習研究社)、山本博文監修『見る・読む・調べる江戸時代年表』(小学館)、三谷一馬『江戸吉原図聚』(中公文庫)、北村鮭彦『お江戸吉原ものしり帖』(新潮文庫)、藤本箕山著・新版色道大鏡刊行会編『新版色道大鏡』(八木書店)、鈴木丹士郎『江戸の声 話されていた言葉を聴く』(教育出版)、八幡和郎監修『武士語でござる』(KKベストセラーズ)、『切絵図・現代図で歩く 江戸東京散歩』(人文社)、『●ものしりシリーズ 江戸庶民の食風景 江戸の台所』(人文社)、野口信一『シリーズ藩物語 会津藩』(現代書館)、八幡和郎『江戸三〇〇藩 最後の藩主』(光文社)、『江戸散歩・東京散歩』(成美堂出版)