江戸時代の結髪(髪型)については、備忘録 「髪型のこと」にも記載しています。

江戸時代の結髪

 江戸時代の文化は、遊里と演劇から流行したものが多かったとされています(※1)
 それは服飾や結髪についても同様で、江戸時代に主流となり、現代も日本髪の基本となっている髪型は、この時代の遊女達から広まったものがほとんどです。
 女性の髪型の基本形は四つあるといわれます。即ち、兵庫髷島田髷勝山髷笄髷の四種です。
 ここから多くの髪型が派生し、女性たちはその中から身分・年齢に応じた髪型を結っていました。

※1……もともと遊女には芸能者としての側面が強かったのです(祇王・磯禅師・静御前などで知られる白拍子や、阿国歌舞伎で知られる阿国などがその例です)。女性と芸能とが切り離され、それぞれ「遊女」と「演劇」になったとも言われています。

兵庫髷

 中国女性の髷を真似た「唐輪髷」から発展した髷といわれています。名前の由来は幾つか説がありますが、摂津兵庫の遊女の髪型から、というのが通説のようです(その他の説……大橋柳町の兵庫屋からとったとする説、太刀の兵庫鎖に似ていることからとする説、兵庫桶に似ているところからとする説 があります)。初めは遊女の髪型でしたが、江戸中期以後は一般の女性にも広がり、江戸末期には再び遊女の髪型として用いられました。
 江戸吉原では、宝暦頃まで遊女の髪型として多いのがこの兵庫髷だったようです(宝暦以後は島田髷が多くなったようです)。遊女特有の髷である「横兵庫」は、この兵庫髷の系統にあります。

 【兵庫髷系統の髪型】
 横兵庫:遊女特有の髪型。安永頃のものは、江戸初期の兵庫髷を横に倒したような髪型。後に髷が蝶が羽根を広げたような髪型となり、嶋原では華やかに、吉原では粋な髪型に結われました。嶋原で結われた横兵庫は、日本髪史上最も豪華な髪型といわれています。

島田髷

 もとは、人気絶頂であった若衆歌舞伎の若衆髷を遊女が真似たものとされています。若衆髷を真似たその髪型で、遊女達は遊女歌舞伎を演じたのです。東海道島田宿の遊女達から生まれたのでこの名がついたそうです(女歌舞伎をしていた舞女・島田花吉が始めたのが由来ともいわれます)。身分階層によって様々に変化していきました(上流階級の女性は高島田、遊女は投げ島田やつぶし島田など)。未婚女性の髪型です。
 現在、花嫁の髪型の定番である文金高島田はこの島田髷系統の髪型です。

【島田髷系統の髪型】
 奴島田:別名「高島田」。島田髷の中で最も上品な髪型といわれます。根に巻いた丈長の太さで、文金高島田・高島田・中高島田などと名前が変わりました。根に丈長を巻かない髪型が「芸妓島田」と呼ばれたそうです。
 潰し島田:髷を低く結い、島田髷の中央が押しつぶしたようになっている髪型。主に芸者さんなどが結った髪型といわれます。幕末期には、この潰し島田が流行したといいます。
 結綿:結い方は潰し島田とほぼ同じで、髷に手絡や鹿の子をかけた髪型。18~19歳くらいまでの、結婚前の町家の女性が結った髪型。

勝山髷

 有名な吉原の遊女・勝山が生んだ髷といわれています(松浦静山『甲子夜話続篇』に逸話が載せられています)。
 勝山は卑しからぬ身分の出とされており、この勝山髷も武家風であるといわれます。
 後の時代には遊女だけではなく、一般女性も結うようになりました。勝山髷は中年女性の髪型として結われることが多かったらしく、後に既婚女性の髪型である両輪髷・丸髷などが勝山髷から生まれました。

 【勝山髷系統の髪型】
 両輪:勝山髷に笄を応用した髪型。京坂では既婚女性の代表的な髪型(江戸では、既婚女性の髪型は丸髷が主流)。
 丸髷:江戸後期、江戸では既婚女性の代表的な髪型。勝山髷と混同されることもあったようです。

笄髷

 他の三つの髪型は遊女や女歌舞伎から生まれた髪型ですが、この笄髷は上流階級から生まれた髪型とされています。室町時代、宮廷女官が下げ髪を笄に巻き付けて上げたものが民間に広まったそうです。
 一般の女性には、先笄(京坂では既婚女性の髪型)が広まりました。

前髪、鬢、髱、髷

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年齢による結髪の違い

 江戸時代、子どもの頃は男女問わず髪を剃りますが、年齢によって結髪が変わっていきました(身分による違いもありますが)。
 江戸時代後期に書かれた『守貞謾稿』によれば、江戸では8・9歳以下の子どもは眉を剃り、は8・9歳になれば銀杏髷を結い、10歳頃になれば額も眉も剃らなくなり、12・13歳頃までは銀杏髷が多く、14歳以上になれば島田髷に結ったということです。
 こちらは江戸時代ではなく明治時代に書かれたものですが、平出鏗二郎『東京風俗誌』には、「8・9歳になれば児髷(ちごわげ。「おちご」とも)・お煙草盆・鬘下地・蝶々髷などに結い、12・3歳になれば銀杏返しなどに結い始め、14・5歳にもなれば桃割れ・唐人髷・ふくら雀などに結い、島田髷に進む」とあります。

おまけ・江戸時代の化粧について

 【お歯黒】
 江戸時代の特徴的な化粧といえば「お歯黒」。お歯黒をして眉を剃る、というのが、江戸時代の既婚女性の姿でした。因みに、平安時代には上流階級の女性は皆、一定年齢になるとお歯黒をし、眉を剃ったそうです(※2)
 江戸時代には、黒は他の色に染まらないことから、お歯黒は貞女のしるしとされ、既婚女性であれば誰もがお歯黒をしました。京坂では、遊女や芸者もお歯黒をしたそうです。逆に江戸では吉原の遊女はお歯黒をしたそうですが、芸者はお歯黒をしなかったなど、お歯黒は基本的には既婚女性のするものでしたが、地域差もあったようです(※3)
 お歯黒は、もとは歯槽膿漏や虫歯予防のためのものであったようですが、明治期以降は禁止されました(※4)
 【白粉】
 昔は室内が暗かったことから、女性の顔を明るく見せるために顔を白くする化粧が生まれたのが、白粉の始まりともいわれています。古くは米や粟の粉で白くしたそうですが、江戸時代には鉛白から作った白粉が普通でした。
 【紅】
 紅(口紅)は高価なものでしたので、多くは上流階級の女性、あるいは遊女がつけたといわれます。
 「笹紅」と呼ばれるものもあり、これは紅を濃く塗り、黒色を帯びた青にする紅の塗り方をいいました。
 【既婚女性の装いについて】
 よくいわれるのが既婚女性の眉剃りとお歯黒ですが、 『守貞謾稿』によれば、江戸・京都・大坂では未婚女性は島田髷、既婚女性は両輪(京坂)と丸髷(江戸)が専らで、江戸では丸髷にして眉を剃り、お歯黒をつけることを「元服」といい、京坂では「かををなおす(顔を直す)」といったそうです。
 丸髷を結い、お歯黒をしても眉を剃らない場合もあったそうですが、こうした状態は江戸では「半元服」、京坂では「かねつけ」(「かね」は鉄漿、お歯黒のこと)と呼んだそうです。
 京坂では新婦はお歯黒だけして、眉を剃らなかったそうですが、大抵は妊娠すると眉を剃り、まだ嫁いでいなくても、20数歳になればお歯黒をし、眉を剃ったそうです。
 京坂では嫁げば必ずお歯黒をしたようですが、江戸では15~17歳の新婦であればお歯黒をしなかったそうです。また、江戸では、京坂同様、嫁いでいない女性であってもお歯黒をし、眉を剃ったそうですが、お歯黒をし、眉を剃るのは、京坂よりも若干早く18~19歳であったということです。

 ※2……平安中期・後期頃からは公卿の男子もお歯黒をしました。女性の成人のしるしとしてお歯黒をするようになったのは、室町時代からのようです。室町時代後期、戦国時代の始まる頃には、上流武士などもお歯黒をつけたといいます。
 ※3……眉剃やお歯黒については、『守貞謾稿』に、「京坂の女二十歳、江戸は二十未満の少女もいまだ嫁さずして歯を染むる者太(はなは)だ多し」「京坂の遊女および芸子ともに専ら歯を染むるなり。けだし島田曲(=髷)にて眉を剃らざるなり。……江戸は吉原の遊女のみ歯を染むるを良とす。……吉原も芸者は年長じたりといへども歯を染めず。この行京坂に反せり。非官許の遊女・芸者ともに歯を染めず云々」とあります。
 ※4……お歯黒と眉剃りが外国人の目に奇異にうつったのが原因の一つといわれています。明治三年の太政官布告で禁止になり、更に昭憲皇太后(明治天皇の皇后)が率先してやめたのに従い、行われなくなりました。

参考

 『結うこころ 日本髪の美しさとその型』(ポーラ文化研究所)、『日本の髪型と髪飾りの歴史』(源流社)、『江戸三〇〇年の女性美 化粧と髪型』(青幻舎)、『黒髪の文化史』(築地書房)、『東京風俗志 下』(筑摩書房)、『近世風俗志(二)』(岩波書店)