国民の祝日

[元日]
 年の初めを祝う日です。宮中では四方拝(天地四方を拝し、年災をはらって豊作を祈る儀式。平安時代に年頭恒例儀式となりました)が行われます。
[成人の日]
 以前は1月15日でしたが、2000年から1月の第2月曜日となりました(いわゆる「ハッピーマンデー法」)。
 かつては、男性は元服(成年式)が行われる13~15歳が、女性は成女式が行われる12~16歳が大人として認められる年齢でした。
 男子の元服は、髪型を変え冠(烏帽子)をかぶり、衣装が正式なものに変わりました。烏帽子をかぶったことから、元服は「加冠の儀」とも呼ばれています。男子の元服では、名前も改められました。
 女子は前髪を結い上げ、お歯黒を塗って(江戸時代以降は、お歯黒をつけたのは主に既婚者)、眉墨をし、衣装を大人のものに変えました。有名な『筒井筒』にも、「くらべこし ふりわけ髪も 肩過ぎぬ 君ならずして たれかあぐべき」などとあるので、髪を上げることは成人することを意味し、また、成人するということは間もなく結婚するということでもありました。
 成人の日が1月15日に定められたのは1948年からですが、2000年からは1月の第2月曜日となっています。年末年始に里帰りした人に合わせて、正月中に成人式を行う自治体もあるようです。
 通過儀礼としての男子の成人式は、682年には既に制定されており、奈良時代以後は「元服」(「元」は首、「服」は着用するの意)と呼ばれたようです。
 成人式に関しては、何年も前から各地で問題が起きていますが、敗戦後間もない日本の「次代を担う青年達に明るい希望を持たせ励ます」という趣旨が根本となっていること、また成人になることを祝福されるということの意味を踏まえて、この行事について考えたいものです。
[建国記念日]
 戦前は「紀元節」と呼ばれ、1948年に占領軍の意向によって廃止されましたが、1966年に「建国記念の日」として復活しました。「建国記念の日」は、「建国を記念し、国を愛する心を養う目的で制定された国民の祝日」とされています。
 1873年に神武天皇即位の日をもって祝日としたのが「紀元節」です(1872年時点では、『日本書紀』には、神武天皇の即位の日が「辛酉年春正月、庚辰朔」すなわち1月1日とあり、1873年の旧暦1月1日が新暦の1月29日にあたったことから、1月29日と定められていました)。1889年2月11日に大日本国憲法、皇室典範が公布されたことから、国家的祝日とされました。因みに、この「辛酉年(紀元前660年)」が皇紀元年とされています。
[春分の日]
 節気の一つである春分の日を祝う日。
 春分の日は、太陽が黄経0度を通過する日。太陽が真東から出て真西に沈むため、昼と夜の長さがほぼ等しくなる日です。「暑さ寒さも彼岸まで」といいますが、春の春分・秋の秋分を中日にした前後三日、合わせて七日間が「彼岸」であり、それぞれの彼岸の中日である春分及び秋分を境に昼と夜の長さが徐々に逆転し、気候も変わってゆきます。
 「彼岸」という言葉はもとは仏教のことばで、悟りを開いた涅槃の境地を「彼岸」(梵語 波羅蜜/波羅蜜多の漢訳)といいます(それに対することばが「此岸」です)。仏教では西方に極楽浄土があると考えられているので、太陽が真東から昇り真西に沈むこの春分の日に、沈む太陽を通して極楽浄土と交わることができるとされました。お彼岸にご先祖様のお墓参りをするのも、このような考えが下地になっているようです(ご先祖様のお墓参りをするのは、仏教を信仰する国の中でも日本独特の行事のようです)。
 春のお彼岸は季節の花である牡丹に因んで牡丹餅、秋のお彼岸は萩に因んでおはぎといいますが、この日、牡丹餅やお団子などの甘い物をご先祖様にお供えするのは、不老不死の甘い飲み物を「甘露」ということに因んでいるといいます。
[みどりの日]
 1948年に制定された国民の祝日(昭和天皇誕生日)です。
[憲法記念日]
 日本国憲法施行(1947年5月3日)を記念し、1948年に制定された祝日です。
[こどもの日]
 端午の節句。
[海の日]
 1876年、明治天皇が東北・北海道巡幸の際、汽船「明治丸」で横浜に帰着した日が1944年以降「海の記念日」とされていたのを改称。
[敬老の日]
 1963年以来「老人の日」とされていた日を1966年改称。
[秋分の日]
 節句の一つ、秋分の日を祝う祝日。秋の彼岸の中日であり、祖先を敬い、故人をしのぶのが趣旨。
[体育の日]
 1964年10月10日に東京オリンピック大会開会式に因みます。
[文化の日]
 かつての明治節に当たります。1927年に制定された祝日で、明治天皇の誕生日に当たります。
[勤労感謝の日]
 宮中行事の新嘗祭の日です。新嘗祭はその年の豊饒を願って新穀を神に捧げる祭儀です。
[天皇誕生日]
 12月23日。今上天皇の誕生日です。戦前までは天長節と呼ばれていました。

節供(節句)

正月/人日

 年神を迎え、豊作を祈る。
 中国では正月の1日から7日まで、それぞれ動物を殺生しない日としていました(1日は鶏、2日は狗、3日は猪、4日は羊、5日は牛、6日は馬)。そして7日目が犯罪者に刑罰を行わない、すなわち人を殺生しない日であることから「人日」と呼ぶようになったそうです。

お正月の風習

[初夢]
 正月2日の夜に見る夢を「初夢」といいます。昔は書き初め、稽古始め、仕事始めなど、年初めの行事が2日であったことから、2日に見る夢を初夢として重視したようです。
 縁起の良い初夢として知られているのは、「一富士二鷹三茄子」。この後は四が綿、五が煙草……と続いているそうです。富士山は日本一の山、鷹は高いの語呂合わせ、茄子は「事をなす」ことから高い志を実現するということで、縁起が良いとされました。ただ、これには諸説あり、鷹がもとは「愛鷹山(あしたかやま)」のことで、高いもの尽くしである(標高の高い富士山と愛鷹山、それに元禄時代に非常に高値であった茄子)ことが由来であるとも、この一から五までが駿河(現在の静岡県)の名物で、これは江戸時代、天下をとった三河国出身の徳川家康にあやかろうとしたものだともいわれています。
 「長き夜のとをの眠りの皆目覚め波乗り船の音の良きかな」という歌(上から読んでも下から読んでも、同じ文になります)を書いた宝船の絵を枕の下に敷いて寝ると、良い初夢が見られるそうです。
[お年玉]
 古くはお餅であったお年玉。年神様にお供えしていた丸いお餅のお下がりを頂いたことがその由来であるといい、本来は年神様からの贈り物を意味していたようです。
 年神様が一年間 力を注いでお作りしたお米には特別な力が宿っているとされ、そのお米でお餅をつくり、それを年神様にお供えし、そのお下がりを頂くことで新しい魂を得、1つ年をとると考えられていました。だから昔は「数え年」、すなわち皆がお正月に1歳年をとったのです。お餅が金銭になったのは、江戸時代、商家が奉公人にお餅の代わりに金銭を与えたことよるようです(花街から伝わったとも)。
[七草粥]
 七草粥は本来、7日の朝に食べるもの(現在では、食べる時が「朝」であることには、あまりこだわりがないようですが……)。七草粥はもともと、中国で官吏昇進を決めたのが1月7日であったことから、その朝、薬草である若菜を食べて、立身出世を願ったのが起源だといわれています。この行事が日本に伝わり、最初は宮廷の儀式であったものが、江戸時代に「七草の節句」に定められました。この日は、明治時代の改暦以前には、五節句(3月3日の上巳、5月5日の端午、7月7日の七夕、9月9日の重陽、正月7日の人日)の1つ「人日の節句」として公式に祝われていたのです。
 七草の種類には、地域差がありますが、一般的には芹・薺(なずな)・御形(ごぎょう)・繁縷(はこべ)・仏座(ほとけのざ)・菘(すずな)・蘿蔔(すずしろ)の七種といわれています。七草は6日の昼に摘み、七日の朝に調理しました。七草を刻むときは、七草を俎板に載せて囃して(「七草の囃し」、または「七草囃子」といいます。「唐土(とうど)の烏が日本の土地へ渡らぬ先になずなななくさ(ななくさなずな)」、もしくは「唐土の烏と日本の烏と渡らぬ先に、ななくさなずな手に摘み入れて」などと歌います)叩き、調理しました。この七草の囃しは、鳥追い歌と結びついているといわれています。
 正月六日の夜から7日の朝までを「六日年越し」「六日年取り」などといい、元日から続けられた正月行事が終わる幕の内最後の日に行われる行事が、この七草粥です。伊勢神宮でも、現在も正月7日に内宮・外宮に若菜の粥をお作りしてお供えするそうです。
 正月のご馳走で疲れた胃を癒し、青菜の少ない時期に栄養を取り入れられることから、七草粥を食すのは、実際に健康にとってもよいことのようです。
 余談ですが、正月15日の小正月に食べる小豆粥も、かつては「七種粥」という名でした。こちらに入れられたのは、米・粟・稗・黍・小豆など7種。小豆は赤い色をしていることから、魔除けとして赤飯などにも用いられます。
[小正月]
 1月15日は小正月。この日は、家族の健康を祈って小豆粥を食べる習慣があります。
 1月1日から7日までの大正月は、特に年男が活躍することから「男正月」と呼ばれますが、それに対して小正月は女の正月とも呼ばれていました(女性が大正月の間 忙しくしているため、それを労うという意味で「女正月」と名づけられているともいいます)。
 この小正月に、なまはげ・かまくらなどの行事が行われますが、特に有名なのが左義長(どんど焼き・どんど祭り、さいと焼きなどともいいます)でしょうか。この行事で正月飾りを神社や寺院の境内などで焼いて祓い清め、その煙に乗ってお正月にいらっしゃった年神様が天上へ帰って行くのだとされています。
 小正月は、月の満ち欠けを基準にしていた旧正月では、新年最初の満月の日にあたりました。農業は月を基準にしていたことから、小正月に行われる行事は豊作を願う行事が多いようです。私の出身地では、小正月に行われる左義長は「どんど焼き」と呼ばれており、この時に繭玉と呼ばれるお餅の飾り(餅花と呼ぶ地域もあります)を木の枝に挿して飾っています。これは私の出身地(長野県東信地方)が、かつて養蚕が盛んであったことに由来しているようです。左義長の時に焼かれたこのお餅の飾りを食べると、一年間無病息災で過ごせるといわれています。
 左義長の由来は、平安時代の宮中の儀式で三鞠杖(さぎちょう。鞠杖(ぎっちょう)とも)と呼ばれる青竹を立てて正月の飾り物を燃やしたことに由来するという説、鳥追い行事の鷺鳥(さぎちょう)に由来するという説などがあります。一方のどんど焼きは火が燃える様子が、さいと焼きの「さいと」は道祖神をお祀りする場所のことが、それぞれ由来となっています。
 小正月にはこの他にも、小正月に食す小豆粥で豊凶を占う粥占、鳥追い行事、『遠野物語』で知られるオシラサマに関係したオシラ遊ばせなどが行われます。大正月の行事に対し、小正月に行われる行事は、郷土色が強く家庭的なものが多いようです。
[鏡開き]
 1月20日は二十日正月と呼ばれ、正月に迎えていた年神様が早朝にそれぞれの場所にお帰りになる日とされています。
 鏡開きは本来 1月20日に行われていましたが、江戸幕府三代将軍・徳川家光の忌日が20日であったことから、商家が蔵開きをしていた11日に改められたのだといいます(3日、4日に鏡開きを行っている地域もあります)。神霊が刃物を嫌うことから、鏡開きには手や木槌を用います。また、「切る」や「割る」は縁起の悪い忌み言葉であるため、末広がりを意味する「開く」という言葉を用いることになっています。
 江戸時代には鏡開きのお餅をお雑煮やお汁粉にして、武家や商家の主人・従者や家族が揃って食したことから、家族や主従の親密さを深めるという意味合いが大きかったようです(武家社会では具足に供えた鏡餅をお雑煮やお汁粉にして食すこの行事を「具足開き」と呼んでいました)。
 年神様にお供えしたお下がりを頂く鏡開きによって、長く続いたお正月の行事は終わりとなります。

3月3日/上巳

 現在でいう「雛祭り」の日です。上巳とは、旧暦3月上旬巳の日であり、もともとはこの日行われていた行事を指しますが、その行事が3月3日に固定されるようになりました。
 もとは水辺で禊ぎをする行事であったものが、人形(ひとがた)を流すことによって穢れを払う儀式になったといいます。その人形が、平安時代に貴族の女子が興じた「雛遊び」の人形になり、更にそこに貴族が興じていた3月3日の「曲水の宴」(上流から流される杯が自分の前を過ぎないうちに詩歌を作り、杯を取り上げてお酒を飲んで、次へ流すという催し)が加わったものが、現在の雛祭りといわれています。現在の雛祭りでも、蛤のお吸い物など、貝の料理が出てくるのは、もとは海辺の行事であったことに因むといいます(※)。
 人形は古くは「ひとがた」と読み、祓えの時に形代として用いたものとされます。人形を自分の代わりとして、自分の穢れを背負わせ、その人形を川に流すことによって自分の穢れを清めるというものでした。ただ、時代が下るにつれ、人形が豪華で立派なものになり、川に流すことが難しくなったため、現在のように雛祭りが終わったらすぐに片づけることを雛流しに換えたのだといわれています。「人形」を「にんぎょう」と呼ぶ呼び方が一般化したのは江戸時代といわれ、人形が遊び道具となったのもこの頃からのようです。

※……新谷尚紀『日本の「行事」と「食」のしきたり』(青春出版社)による。

5月5日/端午

 現在は国民の祝日である「子どもの日」。中国の詩人・政治家である屈原の命日とされています。
 「端午」とは「月のはじめの午の日」を意味しますが、「午」の音が「五」に通じるので、5月5日の行事になったといいます。
 五月は暑く、病がちになるので、邪気・病を払うため、菖蒲湯(菖蒲は邪気を払うものとされました)に入り、蓬を軒に吊るしたのがもともとの姿。それが菖蒲と尚武の音が通じたので、近世以降は男子の節句とされたといいます。武者人形や鯉幟(竜門をのぼった鯉は竜になるという故事に因み、立身出世のたとえとして用いられます。「登竜門」はこの故事から生まれた言葉です)はいかにも男子の節句に相応しいものといえるでしょう。

7月7日/七夕

 有名な牽牛と織女の伝説に因んだ行事。中国では「乞巧奠(きこうでん)」という、裁縫技芸の上達を願ってお供え物をする行事です。
 日本には古来、「棚機つ女(たなばたつめ)」信仰というものがありました。棚機つ女は、水辺の機屋で聖なる来訪者(神)を迎え一夜を過ごし、翌日禊ぎをした後に神を送り出し、その際 穢れを一緒に持っていってもらったと信じられていました。「たなばた」は、病気や豊作を妨げるものを送り出す農工行事でもありました。
 現在は「短冊に願いごとを書く」ものですが、もとは織女にあやかり手習い・技芸の上達を祈ったものでした。
 七夕の翌日、飾っていた七夕飾りを海や川に流す「七夕送り」は、お盆を迎える前に身を清めておくための習わしといわれます。余談ですが、歌に歌われる「五色の短冊」の五色とは、中国の陰陽五行説の青(東・春)、赤(南・夏)、白(西・秋)、黒(北・冬)、黄(中央・土用)のことを指します。
 また、このころは収穫の秋を控えた農繁期の時期でもあります。そのため、睡魔を人形などの形代にゆだねて祓い流す習慣が「眠り流し」となり、東北地方の「ねぶた」(弘前では「ねぷた」)や、秋田県の「竿燈祭り」、能代の「ねぶたながし」になっていったといわれます。また、このころほおずき市が開かれますが、本来この時期は農繁期を控えるであり、妊娠して農作業に従事できない女性の存在が死活問題となっていたことから、ほおずきが堕胎薬として用いられたのが由来だといいます……。

四季おりおり

節分

 節分は、もとは春・夏・秋・冬の節の分かれ目ということで、立春・立夏・立秋・立冬の4つを意味していましたが、現在では立春の前日のみを「節分」といっています。  立春の前日に行われる節分は、もともと中国の宮廷儀式が奈良時代に日本に伝わったもので、平安時代に大晦日に行われる「鬼やらい」、「追儺(ついな)」となりました(この行事が大晦日に行われたのは、当時は立春が1年の始まりと考えられていたためです)。節分の日に豆をまくようになったのは室町時代からで、この行事が庶民に広がったのは江戸時代だそうです。
 豆をまくことに関しては、豆が「魔目」なので鬼の目を退治できるという説、豆が「魔滅」を意味するという説、五行説では硬い豆が「金」に当たるので金の気を打ち消して春(木)の気を助けるという説など様々ありますが、健康であることを「まめ」というのが大豆の「豆」に語呂を合わせたものであることから、豆、特に日本人にとってなくてはならない食材である大豆が、邪気を祓い、健康をもたらすものと考えられていたということはできるようです。
 季節の変わり目には鬼が疫病や災いをもたらすと考えられていたため、このような行事が行われるようになったそうですが、立春から数えて88日目の「八十八夜」や、同じく210日・220日の「二百十日」「二百二十日」などは農業の目安日となっていたり、節分の日に「豆を打つ」ではなく「豆をまく」のは農作業で豆を畑に蒔くしぐさを表していたりと、節分は農業と結びついた行事でもあるようです。
 豆まきでは、年男が「鬼は外、福は内」と言いながら鬼を外へ追い出すように豆をまき、福が逃げないように家の戸を閉めていきます。豆は自分の年の数、もしくはそれより1つ多く食べると1年間 無病息災に過ごせるといわれています。お年寄りはたくさん豆を食べるのが大変なので、豆にお茶を注いで「福茶」として飲んでも、豆を食べたのと同じ御利益があるそうです。
 節分といえば、最近では恵方巻きが流行っていますが、これはもともと関西発祥の行事のようです。恵方とは明(あき)の方ともいい、その年の福を司る神様(歳徳神)がいらっしゃる「よろず吉」の方角。この恵方巻では、恵方を向いて、七福神に因んだ七種類の具が巻かれた太巻きを無言で食べるのが約束事となっています。

初午

 初午とは、2月最初の午の日をいいます。初午の日には、全国に3万あるとされる稲荷社は初午詣でで賑わいます(現在では、初午の日の金曜日などに、初午のお祭りを行うお稲荷さんも多いようです)。
 初午の日は、和銅4(711)年、京都伏見の伊奈利山に祭神が降臨した日とされ、これが全国の稲荷社の総本山である京都伏見稲荷の縁起とされています。初午の日に行われる祭礼は、この縁起に因んだ行事となっています。
 お稲荷さんといえば狐ですが、平安時代以降、仏教の守護神である荼枳尼天が稲荷と習合し、その荼枳尼天が狐に乗って飛ぶことから、狐が稲荷の使女(つかわしめ)と考えられるようになったのだといいます。上記の他にも、稲荷の主祭神である宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ。倉稲魂神とも)が食物を主宰する神・御食津神(みけつかみ)であり、その神名が「三狐神(みけつかみ)」と当て字されたことが、お稲荷さんと狐とが深く結びついている所以ともいわれています(※狐とお稲荷さんとの関係については、諸説あります)。
 稲荷の語源が稲成である(「いなり」を「稲成」と書く島根県の太皷谷稲成神社があります)といわれていることからも分かるように、稲荷は五穀豊穣の神、更に商売繁昌の神ともなりました。
 狐は普段山にいますが、春先になると里に下り、秋になるとまた山に戻ることから、田の神およびその使女として信仰されていたようです。田の神は、春先に山の神が下りてきて田の神になるとされており、この神様を農神、地神、作神、エビス、大黒などと呼ぶ地域があることから、田の神が様々な神様と習合している神様でもあることが分かります。春先に山遊びなどの行事が行われるのも、山にいる神様がまた里へ下りてもらうよう迎える風習があったためだといいます。
 狐が稲荷の使女であり、また田の神およびその使女とされたこと、また稲荷神が稲作の神であることから、これらが結び付き、現在のお稲荷さんになったのでしょう。

八十八夜

 茶摘み歌で「夏も近づく……」と歌われる八十八夜は、新暦の5月2日頃に当たります。
 八十八夜とは、立春から数えて八十八日目の日を指し、三日後には立夏を迎えることから、夏の準備を始める大事な節目とも考えられてきました。茶摘みもこの時期に最盛期を迎え、「八十八」と末広がりの「八」の字が重なることから、この日に摘まれたお茶を飲むと長生きができるという言い伝えがあります。
 ちなみに、八十八夜に摘まれたお茶が一番茶、七月前後に摘まれたお茶が二番茶、七月中旬から八月下旬が三番茶といわれます。

夏越の祓

 6月30日は、ちょうど半年という節目の日。現在の暦では、これからが夏本番ですが、旧暦の6月30日は現在の7月下旬から8月上旬頃に当たり、夏の暑い盛りが過ぎ、翌日から秋を迎える日でした。「夏越」が邪心を鎮める「和し」という意味を込められているともいわれ、輪をくぐると身が清められ、病や罪が祓われるとされる「茅の輪」の行事が開かれます。
 茅の輪をくぐる由来は、『備後国風土記』に記載があります。それによれば、素戔嗚尊が旅先で宿を請うたさい、蘇民将来という人物が歓待したことから、素戔嗚尊がお礼として、「疫病が流行したさいには、茅の輪を腰につけておけば疫病を免れる」と言って茅の輪を渡し、はたして蘇民将来の娘がその通りにしたところ、疫病から救われたのだといいます。ちなみに、「霊」を「チ」と読むことから、茅の輪の「茅」は、疫病を退ける霊力があるものと考えられています。
 翌日、7月1日は1ケ月にわたって催される「祇園祭」始まりの日です。衛生環境が整っていなかった平安時代、夏は疫病が流行し、多くの人が亡くなりました。869(貞観11)年、無病息災を祈念して御霊会が、祇園祭の起源とされています。

山開き

 7月1日は富士山の山開きです。
 日本の登山は山岳信仰と深く結びついているため、山開きの日には全国各地から行者が集まり、「六根清浄」と唱えながら山を登り始めます。
 古くは、山は神が宿る場所であり、安易に入ってはならない場所とされていました。ただ後世になり、修験者が山岳修行の霊験を説くようになると、修験者以外の人びとも限られた時期だけ山岳に登り、山の神と交流するようになりました。
 ちなみに、行者が唱える「六根清浄」の「六根」とは、6つの感覚器官すなわち眼・耳・鼻・舌・身・意のことであり、「六根清浄」とは、六根から生じる迷いを断ち切り、清らかな身となることをいいます。霊山を登るときは、六根の不浄を清めるためにこの言葉を口にするのですが、これが転じて「どっこいしょ」になったとも……。

半夏生

 夏至から数えて11日目の7月2日頃を半夏生といい、七十二候の一つとされています。「半夏」とはサトイモ科の烏柄杓(カラスビシャク)という薬草のことで、この草が生える頃であることから、「半夏生」という名がついたといわれます。一説には、片白草(カタシログサ)というドクダミ科の植物の葉の一部が化粧したように白くなることから、「半化粧」が転じて「半夏生」となり、この草が白く化粧する時期であることから「半夏生」となったのだ、ともいいます。
 半夏生は全国的に季節・気候の変わり目とされ、とくにこの日までに田植えを終えていなければ「半夏半作」、秋の実りが見込めないとされてきました。また、半夏生から5日間は、田植え後の休養をとるところも多いようです。
 半夏生の日は酒や肉をとらず、井戸水を飲むこと、竹やぶに入ることや野菜の収穫を禁止するなど、働くことを忌む伝承が残っています。

四万六千日

 7月10日の観音菩薩の縁日をいいます。千日祭り、千日詣でともいい、この日に寺社にお参りすると、四万六千日分お参りしたのと同じご利益があるといわれています。起源は江戸中期頃といい、京都の清水寺で始まったといわれます。
 最も有名なのが浅草寺のもので、観音堂の境内ではこの日に合わせて「ほおずき市」が立ちます。ほおずきは江戸時代、遊びや薬用としてよく用いられました。
 このほか、笠森観音(千葉)、長谷観音(鎌倉)、八坂町清水寺観音(長崎)などは、月遅れの8月10日に四万六千日が行われます。関西では月遅れ8月9日・10日が観音の縁日とされています。

お中元

 中国では、旧暦1月15日を「上元」、7月15日を「中元」、10月15日を「下元」といい、先祖にお供えをするという道教の行事がありました。これが日本に輸入され、仏教の盂蘭盆会と結びついたのが、お中元の始まりだといいます。
 もともとは先祖供養などの意味を込めて、両親や親戚に贈答品を贈ったのが始まりだといいますが、それが江戸時代になり、主人が使用人に金品を贈る習慣となり、さらに時代が下って、現在のような仕事で付き合いのある人に贈り物をする、という行事になったのだとか。
 ちなみに、「中元」の熨斗は7月初旬から15日まで、それ以降から立秋までは「暑中お見舞い」、立秋を過ぎたら「残暑お見舞い」となります。関西では、8月初旬から8月15日までを「中元」とする地域もあります。

盆踊り

 お盆は、祖先の霊をお迎えして供養する儀式で、正式には「盂蘭盆会」、「精霊会」といいます。本来は旧暦7月の行事でしたが、現在では、月遅れで行うところが多くなっています。
 鎌倉時代に時宗の開祖・一遍上人が広めた「念仏踊り」が始まりとされています。これに「伊勢踊り」や「小町踊り」などの踊りが加わり、お盆の先祖供養の考えが結びついて広まったのだといわれます。
 有名なものに「阿波踊り」(徳島県)、「郡上おどり」(岐阜県)、「西馬音内の盆踊り」(秋田県)などがあります。

土用

 土用は一年に四回あり、それぞれ立春・立夏・立秋・立冬の前の日までの18日間のことをいいます。
 最も有名なのは夏の土用で、土用の最初の日(土用入り)から土用の最終日(土用明け)までを暑中といい、一年で最も暑い時期でもあります。
 土用丑の日にウナギを食べるのは、平賀源内の発案だということはよく知られています。江戸時代にはすでに、土用丑の日は体調を崩しやすいという俗信がありました。陰陽五行説にあてはめると、暑さは「火」で、これに相克するのは「水」。そして水の色は黒とされていました。なので、黒いウナギは、「火」の暑さを消すものとしてちょうどよいと考えられたようです。

八朔

 「朔」とは1日のこと。八朔とは、8月1日のことをいいます。ちなみに、みかんの「はっさく」は、この頃 食べられることから、この名がついたといいます。
 新暦では8月下旬から9月頃にあたり、ちょうど台風が上陸する時期でもあります。なので、八朔は、稲の穂が無事に実るよう願いを込め、「たのみの節句」(「頼み」と「田の実」をかけて)ともいわれます。
 鎌倉時代には、武家社会で「頼み」(=相手に贈り物をして、繋がりを強めておく)の風習が取り入れられ、主従関係を強めるための「八朔の祝い」とする贈答が行われました。
 江戸時代になると、この日は徳川家康が江戸城に入った日とされ、重要視されるようになりました。諸大名などがこの日 白帷子の盛装で登城したことを真似て、吉原でも遊女が白無垢を着て花魁道中を行ったこともあるそうです。

中秋の明月/月々に月見る月は多けれど、月見る月はこの月の月

 「中秋」とは、旧暦の秋であった7月、8月、9月の真ん中であったことから。月を見るのはもちろんですが、秋の収穫物をお供えして感謝する日でもあります。
 中秋の満月を観賞するお月見の風習は、中国から伝わったもののようで(朝鮮半島にも「秋夕」という祭儀があるそうです)、奈良時代には既に月見の宴が催されていたようです。
 江戸時代にはお月見にも関東・関西で風俗の違いが見られ、例えば江戸ではススキを供えるが京坂ではススキも他の花も供えない、江戸の団子は丸形なのに対し京坂は小芋型であるなど、現代にも受け継がれている地域ごとの風習があったようです。
 中秋の名月の別名は「芋名月」ですが、これは里芋を供えることから。里芋が一株でどんどん増えていくことから、子孫繁栄の縁起物とされたことに因むそうです。関東では里芋を「衣かつぎ」に、関西では「煮っころがし」や「みそ煮」にしてお供えします。

秋の七草

 日本人は古来、「もののあはれ」という美観に合う秋を、特に絵画など芸術作品の主題にすることが多いようです。
 生命が躍動する春も素晴らしいですが、雪に覆われ、長く耐え忍ぶ冬を前に、美しく色づく秋。その秋を彩る七草といえば、萩・尾花・撫子・葛・女郎花・藤袴・桔梗のことを指します。これは山上憶良が『万葉集』に詠んだことからとされます。
 山上憶良が詠んだのは、「萩の花 尾花 葛花 なでしこの花 女郎花また藤袴 朝顔の花」ですが、このうち尾花はススキ、朝顔は現在の朝顔ではなく、桔梗のことだとされます。

酉の市

 11月の酉の日は、酉の市が行われます。有名なものには浅草の鷲神社、新宿・花園神社の酉の市があります。
 酉の市は、古事記・日本書紀に登場する日本武尊の命日といわれる11月の酉の日に、今の足立区にある鷲(おおとり)神社に人々がお参りしたのが始まりとも、日本武尊が鷲神社に戦勝のお礼参りをした日ともいわれます。日本武尊が社前の松に持っていた熊手を立てかけたことから、熊手を酉の市の縁起物にするようになったのだそうです。
 熊手は、農作業に欠かせない、落ち穂を拾うための道具。そこから、どんな小さな福でも掻き集めて手に入れる、そんな意味が込められています。

冬至

 冬至は、夏至とは反対に、1年中で最も昼が短く、夜が長い日です。
 昔の中国では、冬至を太陽運行の起点、つまり暦の始まりと考え、この日を「冬至節」として天を祀る儀式が行われていたそうです。かつて中国の皇帝は天の動きを司る能力を有しているとされていたので、暦づくりによって民や他国にその威光を示す必要があり、冬至節は最も重要な儀式であったようです。
 日本でも、改暦以前は冬至を一年の起点の日として重要視していましたが、太陽暦が採用されてからは春分が重視されるようになりました。
 冬至の日に小豆粥や南瓜を食べるのは、この日村里を巡って春を呼び戻すという神の子(太子)を祀り、そのお供え物を神様と一緒にいただくという習わしからきているといわれます。この日に南瓜を食べると中風にならないとされ、また小豆は邪気を払う赤色であることから、この日に食すのだそうです。あるいは、冬至の日には最後に「ん」のつく食べ物を食べると風邪をひかないともいわれています。
 この日 柚子湯に入るのは、体調を崩しやすい季節の節目であるため。実際、柚子には血行促進効果があるので、冷え性や神経痛など、冬の寒さに影響される病に効果があるようです。

煤払い

 12月13日は正月事始めの日。平安時代から江戸時代まで用いられていた宣命暦では、この日は婚礼を除きすべて吉とされるため、正月事始めに良い日とされました。新暦が用いられている現在でも、多くのお寺や神社ではこの日に煤払いが行われているようです。一般の家庭では13日では煤払いをするには早すぎるため、年末に大掃除を行いますが、新しい年神をお迎えするために一年の汚れを落とし清めるという意味では、煤払いも大掃除も同じようです。
 旧暦(太陰暦)から新暦(太陽暦)に改暦されたのは明治5年1月9日(新暦では12月9日)。12月は何とわずか2日しかなかったことになります。それまでは12月8日が事おさめ、13日が煤払いと、ゆったり正月の準備をしていたのですが、この詔勅により、当時の人々は慌ててお正月の準備を始めなければならなくなってしまったようです。(※こちら もご参照下さい)
 十二月の異称である「師走」は、普段は落ち着いている師僧が、お経をあげるために檀家を走り回る「師馳」の意であるとされています(もしくは、年末に暦を配り歩いた伊勢の恩師[おし、おんし。御師とも書きます。伊勢神宮神職で、年末に暦や御祓を配り、参拝者の案内や宿泊を業とした人]が、「師」であるとする説もあるようです)。また、仕事の実務の総決算する折り目であるという「仕極(しは)つ」からという説もあります。

天神様

 25日は北野天神様の縁日。このことから、揚代25匁の梅の位の遊女を「天神」と呼んだのだといいます。
 天神様といえば、実在の人物である菅原道真の神号です。この方は、平安時代の学者・政治家でした。
 宇多天皇に信頼され、当時政治の実権を握っていた藤原氏を抑えるために蔵人頭に抜擢され、その後右大臣に任命されるなど、学者として異例の出世を果たします(余談ですが、近世以前で学者が出世して大臣となった例は他に吉備真備しかおらず、彼は遣唐使として二度も唐に派遣されました。そして、894年、その遣唐使を廃止したのがこの菅原道真です)。
 道真はその出世を妬まれ、太宰府に左遷されていました。左遷される際に詠んだ歌が、有名な「東風(こち)吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな」という歌です。この、道真が梅を好んだということに因んで、天満宮には境内に梅を植えている所が多いようです。余談ですが、この梅の花の歌があることから、梅鉢の家紋と天神信仰とは関わりがあるとされています。加賀百万石で知られる前田家の家紋も梅鉢ですが、これは前田家と遠い血縁関係があるといわれる藤原利仁が熱心な天神信仰をおこなっていたため、前田家で梅鉢紋が用いられるようになったのだといいます。
 左遷された道真は九州で没し、その後 数々の怪異が現れたため、御霊として北野天満宮に祀られ、学問の神様となりました。
 怨霊となった道真を描いたものとして有名なのが『北野天神縁起絵巻』で、この絵巻が後の雷神像に強い影響を与えているといわれています。雷が鳴ったときのおまじないに「くわばら、くわばら」というものがありますが、これは道真の領地である桑原に雷が落ちたことがないので、雷避けにそう言うのだという説もあります(このおまじないに関しては、上記以外にも説があります)。
 また、北野天満宮といえば「撫で牛」が有名ですが、道真をお祀りする天満宮に牛の像が見られるのは、道真が牛車を引く牛を可愛がったことに因んでいるようです(道真が丑年生まれであったことに因むとする説もあります)。

 天神様への信仰は、もとは御霊信仰を持っていた天神と雷神信仰を併せ持っていた北野天神に、菅原道真の怨霊を鎮める信仰が結びついたものとされていますが……天神すなわち天津神(あまつかみ)について記すと長くなりますので、これはいずれまた別の機会に記したいと思います。

参考

 『広辞苑 第五版』岩波書店、『百科事典マイペディア』(日立システムアンドサービス)、岩井宏實『日本人の伝統を読み解く 暮らしの謎学』(青春出版社、2003年)、五十嵐謙吉『歳時の文化事典』(八坂書房)、飯倉晴武『日本人のしきたり』(青春出版社、2003年)、新谷尚紀『和のしきたり』(日本文芸社、2007年)、樋口清之『日本の風俗起源がよくわかる本』(大和書房、2007年)、川口謙二『日本の神様読み解き事典』(柏書房、1999年)、小松和彦『図解雑学 日本の妖怪』(ナツメ社、2009年)、能坂利雄『家紋を読む ルーツと秘密を解き明かす』(KKベストセラーズ、2004年)