「長野県」ではなく「信州」

 長野県の国立大学は「信州大学」といいます。旧国名が国立大学として使われているのは、長野県だけなのだとか……。因みに、信州大学のキャンパスは、長野市・上田市・松本市などに点在しています。長野市・上田市はまだ近いにしても、松本市へ行くには長野市から電車で1時間弱かかります。
 長野県は明治維新の廃藩置県の際に生まれた県。それも維新直後は「長野県」と「筑摩県」とがあり、その2県が合併したのが「長野県」です。
 明治維新時の「長野県」は、信濃国のうち佐久・小県(ちいさがた)・更級・埴科・高井・水内の六郡から成り、「筑摩県」は諏訪・伊那・筑摩・安曇の四郡に、飛騨国を合わせたものでした。明治9年に筑摩県庁舎が焼失し、中南信の4郡が長野県に合併され、飛騨国が岐阜県に合併されました。信濃国が行政区画として一体の「長野県」になったのがこの時です。もと筑摩県の人にしてみれば、「なぜ『長野』なのか?」という思いがあり、それが「長野県」よりも「信州」としての意識が強いことに繋がっているといえるでしょう。
 そういえば、長野県の県歌は『信濃の国』という歌ですが…… ほとんどの人が県歌を暗誦できるのは、長野県くらいではないかと指摘している本もありました(長野県関連の本で、著者が長野県ではなかった本だったと思いますが)。
 今は時代が変わって、県民意識というものをあまり感じない人も多くなってきているとは思いますが、『信濃の国』の歌詞は長野県内の特徴をよく言い表した歌ではあります。
 旧長野県と旧筑摩県とが合併してできた「長野県」、何度か分割の案も出たそうですが、この『信濃の国』の歌が素晴らしく、長野県と筑摩県に分割されこの歌が失われてしまうのは惜しいと、分割案が流れたというエピソードさえあるほど。
 『信濃の国』は、長野県民の心を繋ぐ歌のようです。

『古事類苑』における信濃国の記載

 明治~大正期の官撰事典『古事類苑』地部に長野県の説明が記載されています。

 信濃國は、シナノゝクニト云フ、東山道ニ在リ、東ハ甲斐、武蔵、上野、西ハ美濃、飛騨、南ハ駿河、遠江、三河、北ハ越中、越後ノ十箇國ニ界シ、東西凡ソ二十三里、南北凡ソ四十五里余、其地勢最モ高ク、至ル所ニ高山峻嶽重畳シ、河流亦四方ニ奔馳シ、實ニ我國中原ノ脊梁ト称セラル、此國ハ古ヘ國府ヲ筑摩郡ニ置キ、伊那諏方(=諏訪)、筑摩安曇更科水内高井、埴科、小縣佐久ノ十郡ヲ管シ、延喜ノ制上國ニ列ス、是ヨリ先、元正天皇ノ養老五年ニ、諏訪郡一帯ノ地ヲ割キテ諏方(=諏訪)國ヲ置キタリシガ、聖武天皇ノ天平三年ニ至リテ、復タ信濃ニ併合セリ、明治維新ノ後、筑摩郡ヲ東西ニ、安曇、佐久ヲ南北ニ、伊那、水内、高井ノ三郡ヲ上下ニ分チ、新ニ長野市ヲ設ケテ一市十六郡ト為シ長野縣ヲシテ之ヲ治セシム

 『古事類苑』には『諸国名義考』も掲載されており、そちらには信濃という地名の由来について記述があります。

参考

 『広辞苑』第五版(岩波書店)、『百科事典マイペディア』(日立システムアンドサービス)