「信濃」の由来

 長野県は「信州」とも呼ばれます。
 これは長門国を「長州」と呼ぶのと同様で、旧国名は「信濃」でした。
 それでは、「信濃」という国名は、どういった理由から名づけられたものなのでしょうか。
 かつて信濃とは、「科野」と書き表していました(『古事記』に、諏訪神社の祭神である建御名方命が建御雷神に追いかけられた際に、「故、追徃而、迫至科野國之州羽海……(※州羽海は現在の諏訪湖のこと)」と記載があります。このように「しなの」が「科野」と書き表されていたことから、「しなの」は「科の木」(いわゆる栲)からその名をとったのではないか、とする説があります。かつて長野県には科の木が多く自生していたことが、その国名の語源と考える説です。
 もう一つの説として、山を意味する「科」からとったとする説があります。例えば、「しなだゆふ」「しなざかる」などの「しな」は坂の意で、長野の旧名「しなの」という地名も、級坂(しなざか。段丘)が多いためのものではないかと考えられています。賀茂真淵は『冠辞考』で、「山国にて級坂あれば地の名となりけん」と述べています。
 (因みに、国名を漢字二字で表記するようになったのは701年(大宝年間)に確認できます。『和名類聚抄』(※1)(承平年間=931~938年)『色葉字類抄』(※2)(治承年間=1177~1181年)、『日本大文典』(※3)(慶長13年=1608年)全てにおいて、この国は「しなの」と呼ばれていたことが確認できます)
 それでは、一体なぜ、「科野」が「信濃」へと変わったのでしょうか。
 旧国名は、その多くが大宝頃には漢字二字に改められています。ほぼ同時期に作られた『古事記』と『日本書紀』を比較したときに、『古事記』の方が日本古来のやまとことばを採用しており、『日本書紀』の方が漢文に近い記述法を採用しているといわれます。つまり『日本書紀』は、最も身近な外国である中国への対外意識が反映していると考えることができるのです。それと同様に、旧国名の漢字表記が改められたのも、『日本書紀』同様、中国への対外意識が働いたためではないかと推察されます。信濃は音読みすればシンノウと読めますから、中国における発音が「しなの」に近い字を当てはめたのが「信濃」だったのではないでしょうか。

 科の木が多く自生していたためか、はたまた山が多いからか……。
 どちらにしても、長野県に「蓼科」「立科」「浅科」など「科」のつくの地名が多いことからすると、「科野」という地名は、それを名付けた人々の、自分の住む土地に対する愛着がこめられている名前だといえるでしょう。

 附記①:先ほどの『古事記』にある記述(「故、追徃而、迫至科野國之州羽海……」)は、諏訪神社の祭神・建御名方命が諏訪に鎮座する起源を語った話です。
 附記②:『続日本紀』和銅6年条に「畿内と七道との諸国の郡・郷の名は、好き字を着けしむ。云々」とあります。この好ましい字を漢字二字でつけたのが国名のようです。
 附記③:風の神様のことを「級長戸辺命(しなとべのみこと)」、風の吹き起こる所を「科戸」ということから、科は風の意で、「しなの」が風の国と解する説もあるようです。諏訪の神様が風の神であるから、あるいは風が吹き起こる場所であることが、この地名の由来といいます。この説は、テレビ埼玉・群馬テレビ編『中山道 風の旅 軽井沢─馬籠 編』(株式会社さきたま出版会)で紹介されていました。

 ※1…日本で最初の分類体の漢和辞書。源順 撰。
 ※2…平安時代の国語辞書。橘忠兼 撰。
 ※3…日本大文典はポルトガルのイエズス会宣教師・ロドリゲスの著した日本語文法書。

おまけ

 旧国名の中には、国の地域特性が表れているものが多くあります。
 例えば「陸奥(むつ)」。これは『和名類聚抄』では「みちのおく」と記載されています。それが『色葉字類抄』で「みちのをく」となり、それが縮まって『日本大文典』では「むつ」となっています。「みちのおく(道奥)」とは、中央から地方に至る道の果て、の意です。
 その他、いくつか興味深いものを挙げてみました。

 遠江:遠い淡海(=江)から。『和名類聚抄』では「とほたあふみ」。「とほつあふみ(遠つ淡海。「つ」は現在の「の」に当たります)」からの転化。それが後に「とをたうみ」→「とをとみ」→「とおとうみ」に変化。
 淡海とは淡水湖のことで、「遠つ淡海」とは、もともとは浜名湖を指しました。現在の静岡県西部のことを指します。
 近江:遠江とは対照的に、こちらは近い淡海(=近つ淡海)から。これは京都から近い淡水湖である琵琶湖のことを指します。因みに琵琶湖は、『万葉集』には、「淡海の海」とあります。
 琵琶湖に近い草津宿は、近世期には東海道と中山道が分岐する宿場町として発達しました。
 近江とは、現在の滋賀県のことを指します。
 上野、下野:それぞれ「かみつけの」、「しもつけの」の転化。昔は「上毛野」「下毛野」で、鉄道の「両毛線」はこの二国間を走っていることから。
 もともとは「毛野(けぬ)国」で、それが上下両国に分かれたとされます。上野は今の群馬県、下野は現在の栃木県。昔は京都が文化・政治の中心でしたので、京都から見て近い方の群馬が「『上』野」、遠い方の栃木が「『下』野」と名づけられました。
 出羽:いでは(=出端)から。「いでは」→「でわ」への転化。
 現在の山形・秋田県に当たります。
 越前、越中、越後:『和名類聚抄』ではそれぞれ「こしのみちのくち」「こしのみちのなか」「こしのみちのしり」。それが漢字の「越前」「越中」「越後」からそれぞれ「えちぜん」「えっちゅう」「えちご」に(『色葉字類抄』ではそれぞれ「ゑつぜん」「ゑつちう」「ゑつご」)。京都から見て近くにある福井県が「越前」、京都から見て遠くにある新潟が「越後」となっています。こしのみちのくち、こしのみちのなか、こしのみちのしり はそれぞれ、越の道の「口」「腹(中)」「尻」で、国を体に喩えた呼び方です。日本では国や島、地理などを人体に喩えていうこともしばしばあります。
 越前は現在の福井県東部、越中は現在の富山県、越後は現在の新潟県(佐渡を除く)です。
 紀伊:森林が多い、すなわち「木の国」から。中世期には熊野詣が流行し、近世期には御三家の一つ紀伊徳川家(和歌山藩)が置かれました。
 現在の和歌山県と、三重県の南部です。
 淡路:阿波への道(=路)ということから「あわじ」。「あはぢ」→「あわじ」という変化。昔は「ぢ」と「じ」の音は異なっていました(現在は同じ発音ですが、表記が異なるということは、もともとは違う音であったのだと考えられています)。
 淡路は、現在の兵庫県の一部です。
 日向:「ひむか」が旧名。日本建国神話の地とされており(天孫は日向に降り立ち、神武天皇もこの地域から東征を行った)、そのことと国名に関連があると考えられています(天孫は天照大神の孫で、天皇家は代々 太陽神の子孫とされていることから、日は天皇家を象徴)。

 ※『和名類聚抄』『色葉字類抄』はカタカナ表記、清濁を書き分けていません。

参考

 『広辞苑』第五版(岩波書店)、『百科事典マイペディア』(日立システムアンドサービス)