金沢城

 天正8年(1850年)に佐久間盛政が築城を開始。天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いの後、羽柴秀吉(豊臣秀吉)から加増を受けた前田利家が入城し、前田家の居城となりました(このときは「尾山城」といったそうです。再び「金沢城」と改称されたのは、天正15年頃のことといわれています)。
 明治14年(1881年)に焼失し、平成13年に古文書や古絵図をもとに復元されたそうです(石川門、三十間長屋などは江戸時代の遺構です)。復元の際に用いられた技術が城内の展示やCG映像などで分かりやすく説明されています。因みに、金沢城は、明治以降に建設された木造建築では国内最大規模なのだそうです。
 瓦には鉛が用いられており、有事にはこれを鉄砲玉として使用したのだとも、積雪に耐えるためともいわれています。 

金沢城・五十間長屋

兼六園

 水戸の偕楽園、岡山の後楽園と並ぶ日本三代名園の一つ。5代藩主綱紀が作庭を始めた頃は「蓮池庭」という名前で、その後宝暦9年(1759年)焼失。11代治脩が復興し、12代斉広・13代斉泰が整備、現在の姿になったといいます。
 文政5年(1822年)、松平定信(奥州白河藩主・老中)が「六勝(宏大、幽邃、人力、蒼古、水泉、眺望)を兼ね備えた庭園」として、兼六園と命名したといわれています。
 写真は徽軫灯籠(ことじとうろう)。琴柱(ことじ)に似ていることからその名がついたといいます。

徽軫灯籠(兼六園)

 徽軫灯籠は記念撮影の人気スポットなので、人がいなくなった一瞬を撮影しました。
 下の写真は根上松。盛り土に植えられ、成長した後に土を除かれたことによって根が露出した松です。

根上松(兼六園)

成巽閣

 文久3年(1863年)、加賀藩13代藩主斉泰の母・真龍院の奥方御殿として造営されました。1階は武家書院造り、2階は数寄屋風書院造りと、1階と2階で雰囲気が全く異なっています。金沢城の東南(巽)にあることから、創建当時は「巽御殿」と呼ばれていたそうです。現在の「成巽閣」という名に改められたのは明治7年(1874年)。
 武家書院造りの1階は「謁見の間」の他、御寝所(亀の間)、御居間(蝶の間)などがあります。大名家の奥方のために造営されたということで、優美な彫刻が施されていたり、部屋ごと障子の腰板に異なる絵が描かれていたりと趣向が凝らされています。
 2階はそれぞれ天井や壁に趣向が凝らされています。群青を用いた青い目地や、紫色の壁、白群青の天井など、各部屋ごとに色彩と天井の材質・形態が異なっています。

ひがし茶屋街

ひがし茶屋街・メインストリート

 文政3年(1820年)、加賀藩公認の茶屋街として始まりました。国の重要伝統的建造物保存地区に選定されています。
 現在でもお茶屋さんとして営業してるお店があり、芸妓さんもいらっしゃいます。
 お茶屋の建築・風情を見学できる施設としては、「志摩」、「懐華楼」、「お茶屋文化館(旧中屋)」があります。
 「志摩」はひがし茶屋街誕生とともに建てられたお茶屋(国重文)。江戸時代のお茶屋の姿を、そのまま見ることができます。
 「懐華楼」は築180年以上のお茶屋。現代の美術作家さんが描いた襖絵なども使用されており、新旧が織り交ぜられた内装になっています。昼間は通常に観覧でき、甘味どころやショップもありますが、夜は一見さんお断りのお座敷となるそうです(※一見でもお座敷体験ができる「艶遊会」という催しがあるそうです)。
 「お茶屋文化博物館(旧中屋)」は、「志摩」同様、ひがし茶屋街誕生とともに建てられたお茶屋で、創建時に「中屋」という名前であったそうです(その後、千秋、玉久などと名前が変化したそうです)。
 「志摩」「懐華楼」はひがし茶屋街のメインストリートにありますが、「お茶屋文化館(旧中屋)」はメインストリートより一本北側の道にあります。そのためか静かで、落ち着いて見学することができました。

ひがし茶屋街

 茶屋は2階のみが遊興の場として用いられたので、1階(こちらには帳場、台所などがあります)とは全く造りが異なります。現在は2階建てが一般的ですが、当時の建物はほとんどが平屋建てであり、茶屋のような2階建築は特別に許可されたものだったそうです。また、お茶屋は遊興の場であるため、物入れや押し入れは、基本的にないそうです。
 茶屋の遊びは音曲や舞いなど、客の方にも教養が求められたので、やはり商人など、富裕層が主なお客であったようです。

 [タクシーの運転手さんのお話]東茶屋街は夜9時になるとガス灯を灯すそうで、その時間が風情があって良いのだそうです。

主計町茶屋街

主計町

 加賀藩士・富田主計の屋敷があったことに因む町名といいます。ひがし茶屋街・にし茶屋街と並ぶ金沢三茶屋街のひとつで、こちらは明治2年(1869年)に遊里となったのが始まりといいます。
 尾張町(前田利家の入城にあわせ、尾張から呼んだ商人を住まわせたことからの命名といわれています)の旦那衆はこの主計町茶屋街へ通ったといい、お客が茶屋街へ通うときに使ったといわれるのが「暗がり坂」です。
 1970年、「主計町」という町名が消滅し「尾張町」の一部となりましたが、町名復活運動などが起き、1999年に旧町名が復活したそうで、町名の石碑からその痕跡が伺えます。

タクシーの運転手さんのお話

●2014年に新幹線が開通し、東京から金沢までかかる時間が2時間半弱となりました。それを見越してか、大きなホテルが次々と建設されていたようです。
●京都の町屋(京町家)は所謂「鰻の寝床」ですが、金沢の町家も同じように、間口が狭く、奥行きがあります。
 金沢の町屋も、京町家と同じく間口の広さで町費が決まっていたそうですが、京都の町屋が家と家との境界を「柱2本」としていたのに対し、金沢の町屋は「柱1本」が家と家との境界(柱の半分が家の境界線)であったそうです。
●江戸時代から続く老舗も、金沢には多くあるようです。ひがし茶屋町から金沢駅に行く途中に、薬種問屋さん、お麩屋さんの2軒がありました。古い老舗には、アーチのようなものがあり、それが目印なのだとか。
●京都は町並みが碁盤の目状になっていますが、金沢は戦さが起きる可能性を考慮したようで、道が複雑になっています。

【金沢城公園ホームページ(石川県ホームページ内)】 http://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/kanazawajou/
【成巽閣】 http://www.seisonkaku.com/
【志摩(ひがし茶屋街)】 http://ochaya-shima.com/
【懐華楼(ひがし茶屋街)】 http://www.kenrokuen.jp/(兼見御亭グループトップページ)、http://www.kaikaro.jp/(懐華楼トップページ)