嶋原大門。
この大門が北東つまり鬼門に向いているため、「入口が鬼門では縁起が悪い」という理由で、嶋原の中では南北東西を逆に言い表すようになったのだとか(京嶋原七不思議に「入り口を出口といい」、「上へ行くのを下之町」「上へ行くのを下之町」とあります)。
立て札によれば、この大門は慶応3年(1868年)に建てられたものだそうです(京都では何度か火災があり、焼けた大門も何度か作り直されているそうです)。幕末の志士たちが、ここを通った可能性も、ぎりぎりあるということですね(苦笑)。
写真右側にあるのが、女性たちと客が別れを惜しんだという「サラバ垣」。
現在も営業されている置屋として有名な輪違屋。浅田次郎『輪違屋糸里』の糸里もここの天神とされていました(史実では、桜木太夫は輪違屋の太夫だったそうですが、糸里については輪違屋の天神であったかどうかは不明だそうです)。輪違屋の御当主が執筆された『京の花街 「輪違屋」物語』(PHP新書)によれば、古くは輪違屋ではなく、「養花楼(ようかろう)」という名前であったそうです。
揚屋としては同じ嶋原内に角屋(すみや)があり、こちらは美術館となっています。
京都が舞台のドラマで、必ずといっていいほど登場するのが花街の代表・祇園。特にドラマの撮影などに使われるのは、「辰巳大明神」(写真)周辺だそうです。
『忠臣蔵』で有名な「一力」も祇園にあります。
上七軒、先斗町など、京都には花街がたくさんあるので、また機会を見て行ってみたいと思います。
よく「舞妓さんと芸妓さんの違い」についてテレビ番組などでやっています。
管理人も江戸時代についてあれこれ調べるまであまり気にもとめたことがありませんでしたが、舞妓さんは「雛妓(おしゃく)」のことで、芸者見習いの方を指します。ただ、一般に「雛妓」は玉代が半分(なので「半玉(はんぎょく)」とも呼ばれる)に対し、舞妓さんは宴席で舞いを披露するのが主で、玉代は芸者さんと同額だそうです。芸妓さんは歌や踊りで客をもてなす方。
芸妓さんになる修業期間が舞妓さんのようです。名前も「舞」と「芸」ですし、服装や髪型も全く異なります。舞妓さんはまだ幼く可愛い、舞うと素敵な華やかな衣裳ですが、舞い以外にも音曲などをやるであろう芸妓さんは、臈長けて落ち着いた雰囲気の衣裳。
京都の旅行雑誌を見ていると、舞妓さんや芸妓さんに変身するスタジオなどで、「舞妓さんになりたい方はご連絡を」のように記載があるところもあります。中学を卒業した方とあるのは、芸事を極める難しさゆえなのでしょう。
因みに、まだ新人の舞妓さんは、鼻緒が赤や白なのだそうです。
余談:
舞妓さんは芸妓さんになる前の、まだ修行中の女性たちをいいます。なので、以前はどちらかといえば芸妓さんの影に隠れた(表に出てこない)存在だったそうですが、明治時代に第一回の「都をどり」が始まり、そこで一般に知られるようになったのだそうです(京都美容文化クラブ『日本の髪型 伝統の美 櫛まつり作品集』光村推古書院 による)。