江戸時代関連の雑学—文学・芸能編

文学・芸能の題材

 歌舞伎や浄瑠璃、人形浄瑠璃の中には、江戸時代にあった実際の事件をもとにしたものが少なくありません。
 八百屋お七を描いたものには、井原西鶴の『好色五人女』や歌舞伎「お七歌祭文」、浄瑠璃「八百屋お七」「伊達娘恋緋鹿子」があります。井原西鶴の『好色五人女』や近松門左衛門の「心中物」には、当時実際に起きた事件を脚色したものが見られることはよく知られています(※)。歌舞伎の画期的な作品といわれる『曾根崎心中』も、1703年に起きた情死事件をもとに、事件の起きた1ヶ月後に人形浄瑠璃で初演されました。このように、実際に起きた事件をすぐに舞台化した作品は「一夜漬け」「際物(きわもの)」と呼ばれます。余談ですが、『曾根崎心中』初演時に太夫を勤めたのは、初代竹本義太夫でした。
 『曾根崎心中』は同時代の事件を取り扱っていますが(=「世話物」)、それに対して江戸時代より古い時代の事件を取り扱った作品(=「時代物」)には、大化の改新を取り扱った作品(『妹背山婦女庭訓』)、菅原道真の流罪を取り扱った作品(『菅原伝授手習鑑』)、源義経周辺の出来事を取り扱った作品(『義経千本桜』)などがあります。
 ただ、出版物や芸能は影響力が強かったため、幕府の威信に関わるもの、政治的な事件を描いた作品は弾圧の対象になってしまいます。そこで、時代背景を変えたり、実際の人物とは違う名前別にするなどして、弾圧をかいくぐった作品も少なくありません。
 『伽羅(めいぼく)先代萩』という作品は、「めいぼく」は伽羅で作った下駄で伊達綱宗(仙台藩藩主)が遊郭に通ったという伝説を踏まえたもの、「先代」はその名の通り「仙台」、「萩」は宮城野を象徴する花……と、仙台藩伊達家に起きた御家騒動「伊達騒動」を題材にしていますが、伊達綱宗は足利頼兼に、原田甲斐が仁木弾正にと、時代・名称は異なるものとなっています。
 有名な「忠臣蔵」も、浄瑠璃や歌舞伎劇では「仮名手本忠臣蔵」。1702年に起きた赤穂浪士の仇討ち事件を室町時代に置き換え、浅野内匠頭は塩冶判官、吉良上野介は高師直、大石内蔵助は大星由良之助という役名になっています。
 『伽羅先代萩』も『仮名手本忠臣蔵』も、同時代に起きた事件がもととなっていながらも、その時代背景を変えたのは、幕府による弾圧を避けるためだったのでしょう。

※……『好色五人女』はすべて当時著名であった事件を脚色したもの。そのうち「おさん・茂兵衛」や「お夏・清十郎」は、同時代の近松門左衛門や、明治時代の坪内逍遥によっても脚色されています(近松門左衛門『大経師昔暦』『五十年忌歌念仏』、坪内逍遥『お夏狂乱』)。
 近松門左衛門の心中物では、『心中天の網島』、『曾根崎心中』、『冥途の飛脚』などが実際の事件の脚色です。女性名が先に来る作品は、多くが上方の作品であるといいます。

江戸っ子に人気の「曾我五郎」

 江戸時代より昔は、日本の中枢は京であり、歴史の舞台となったのも主に京坂でした。
 そのため、関東で旗揚げした平将門、富士の裾野で親の仇を討った曾我兄弟は、江戸っ子には特別な存在となりました。
 そこから発展して、江戸っ子の代表である花川戸助六(実は曾我五郎)や、「矢の根」の五郎といった、江戸歌舞伎になくてはならない役が誕生しました。

小林一茶の「おらが春」

 小林一茶といえば、「やれ打つな 蠅が手を摺る 足を摺る」、「雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る」、「痩せ蛙 負けるな一茶 是に有り」等で有名な、江戸時代の代表的俳人です。
 弱いものや小さなものへ対するいたわりの句が多い一茶は、家庭不和のため家を出、諸国を放浪するなど、苦労の多い人生を送っていました。
 52歳になって妻子ができ、生活が落ち着いた中で迎えた57歳の春に作った句が「目出度さも ちう位なり おらが春」でした。
 しかし、愛児に死別し、「露の世は 露の世ながら さりながら」と詠み、「ちう位」の年の暮れを、「ともかくも あなた任せのとしの暮れ」と詠んで結んでいます(※「あなた」とは阿弥陀のこと)。

曲亭馬琴

 『南総里見八犬伝』で知られる読本・合巻・黄表紙作者である曲亭馬琴は、江戸時代唯一、また日本で初めて原稿料だけで生活した文士とされます。
 70歳前後から視力が衰え目が見えなくなりながらも、口述したものを息子の嫁に書き取らせて完成したのが『南総里見八犬伝』。完成までに28年の歳月を費やした超大作です(98巻106冊)。
 本名「滝沢興邦(おきくに)」、戯作号が「曲亭馬琴」、変名が「曲わの馬ごと」など、34の名を持っていた人でもありました。

式亭三馬

 草双紙・滑稽本の作者として知られる式亭三馬(代表作は『浮世風呂』『浮世床』)。彼は日本橋本町二丁目で薬商も営んでいました(日本橋本町は、薬種屋街として知られていました)。
 式亭三馬がここで「江戸の水」という化粧水を売り出したところ、この商品は大いに売れたといいます。これは式亭三馬の名前が知られていたこととあわせて、自分の作品の中にこの化粧水の宣伝を載せていたこともあるようです。

山東京伝

 弟の京山(浮世絵師・戯作者)の言葉に従うと、天ぷらに「天麩羅」という字を当てたのは山東京伝だったといいます。ただし、それ以前にも「天麩羅」という字が書かれている浄瑠璃本があるので、真偽のほどは定かではありません。
 山東京伝は戯作者、浮世絵師。代表作に黄表紙『江戸生艶気樺焼』、洒落本『通言総籬』などがありますが、深川遊女を描いた洒落本三部作(『仕懸文庫』『娼妓絹籭』『錦之裏』)が風俗を乱すという理由で、手鎖50日の刑に処されました。
 筆禍事件の後、京伝は煙草入れの商売などをしますが、読本の作者として復活し、曲亭馬琴と人気を二分するほどになりました。

十返舎一九

 『東海道中膝栗毛』の作者として知られる戯作者。『東海道中膝栗毛』はおよそ20年間書き続けられ(全8編18冊)、一九はその原稿料で生計を立てていたころから、馬琴と並び職業作家のはしりとされています。
 剽窃が多かったためか、後世の評判はあまり芳しくないようです。

八百屋お七(※史実ですが、読み物や文楽が有名なのでこちらに分類しました)

 「八百屋お七」といえば、井原西鶴『好色五人女』や、歌舞伎「伊達娘恋緋鹿子」などで知られます。
 丙は火の兄(え)、午は方角で南に当たることから、丙午はもともと火災の多年であるという迷信がありましたが、このお七がこの丙午生まれであったという伝承があることから、丙午に生まれた女性は夫を食い殺すという迷信も生まれました(※八百屋お七の生年については、1668年戌申という説が有力なので、お七に丙午の俗信は当たらないという見方が強いです)。
 「八百屋」といえば、現在は野菜を売っている「青物屋」のことをいいますが、江戸時代には「八百屋」は、今でいう市場のことをいったそうです。「八」には「分ける」意味が、「百」は親指の形を表しており、そこからすると八百屋とは「親指を立て物を分け捌く店」のことをいったということになります。
 八百屋=青物屋となったことについては、「青物屋」を略した「青屋」が、言いやすいように音が転じて「やおや」となったのではないかという見解もあります。因みに、八百屋お七の家は「青物屋」ではなく、「乾物屋」であったそうです。
 お七は、放火の罪で天和3年(1683年)鈴ヶ森で処刑されたことは確かですが、それ以外のことに関しては、江戸時代から諸説紛々していて謎が多い女性でもあります。


江戸時代関連の雑学—芸術編

喜多川歌麿

 著名な浮世絵師・喜多川歌麿。美人画で知られる彼には、吉原の旧家の生まれという説もあるそうです。
 歌麿は、1804年『絵本太閤記』を題材にした「太閤五妻洛東遊観之図」が幕府の忌諱に触れて罪となり、2年後、失意のうちに亡くなりました。彼の墓は長い間 無縁仏とされていて、明治にその墓が偶然発見され、享年もそこで分かったのだとか。

葛飾北斎

 葛飾北斎の代表作といえば『富岳三十六景』。富士山を主題とした版画で、「三十六景」と名を打ってあるにもかかわらず全部で四十六図があるのは、線描を藍摺にした三十六図が本来の予定数であったのが、好評だったので追加されたため。そこで、追加された十図は墨摺となっており、「裏富士」とも呼ばれています(有名な『神奈川沖浪裏』『凱風快晴』(赤富士)は藍摺)。この『富岳三十六景』と、歌川広重の『東海道五十三次』は、風景版画の隆盛を促したといわれています。
 葛飾北斎は、画風とともに号を変えたり、90回以上も転居をしたりといった奇行から、隠密説もある人でもありました。


江戸時代関連の雑学 幕末編

幕末の発明家

 田中久重(1799〜1881)は、「からくり儀右衛門」とも呼ばれた人物で、万年時計を完成させた人でもあります。
 明治8年に彼が創設した日本初の民間機械工場「田中製作所」が「東芝」となり、現在にまで至っています。

和宮降嫁

 孝明天皇の妹・和宮が徳川家茂に降嫁した際に通ったのは中山道でした。
 和宮一行が追分宿(現在の長野県北佐久郡中軽井沢)を通過した際、「結婚なのに追分(=別れる)では縁起が悪い」として、この時 「追分宿」を「相生宿」と記した記録があります。
 「追分」とは分岐点をさす言葉で、この宿が中山道と北国街道の分岐点であったことからそう呼ばれているのですが、江戸方面から来れば中山道と北国街道の「分岐点」であるこの宿も、逆から見れば中山道と北国街道の「合流点」であり、そこから「相生(あいおい)」という地名も生まれています(「相生の松」と呼ばれる木もあります)。
 結婚という慶事にあたり、分岐ひいては別離を意味する「追分」を、和合の意での「相生」と言い表した粋な人がいたようです。

お台場は……

 現在は東京の名所となっているお台場。もとは品川台場といい、黒船来襲に備えて江川太郎左衛門(坦庵)が設計し、斎藤弥九郎が工事監督を務めた砲台でした。
 築かれた7砲台のうち、第4・第7砲台は未完成で、実戦には用いられなかったそうです。
 現在は第3・第6台場が残り、第3台場が史跡公園となっています。

五稜郭は……

 五稜郭といえば、戊辰戦争最後の戦争である箱館戦争で幕軍が拠点とした場所ですが、塁濠が星形の珍しい城郭です。
 この五稜郭、函館以外にも、長野県佐久市に「龍岡城五稜郭」という五稜郭があります(現在は小学校)。龍岡藩主(※田野口藩を改称し、後に龍岡藩になりました)松平乗謨(まつだいらのりかた)が築城したのがこの五稜郭です。
 この龍岡城五稜郭を建てた松平乗謨は、維新後「大給恒(おぎゅうゆずる)」と名を改めました。この大給恒が西南戦争の際 佐野常民とともに設立した「博愛社」が、現在の日本赤十字の前身となります。
 因みに「大給」とは一四松平(家康以前に本家と分かれた大名と、家康の子孫たち14家のことをいいます。家康以前に本家から分かれた大名は別称「大給松平」)を指します。一四松平は、江戸時代は松平姓を名乗っていましたが、明治になって松平から大給に姓を変えた場合が多かったようで、松平乗謨もその一人だったようです。
 龍岡藩は、戊辰戦争時には西軍(新政府軍)として北越に出兵。松平乗謨は明治時代には元老院議官、枢密顧問などを務め、後に伯爵になりました。


江戸時代関連の雑学 幕府・将軍編

将軍家の血筋

 徳川家康に始まる徳川家ですが、初代家康、二代秀忠(家康の三男)、三代家光(秀忠次男)、四代家綱(家光長男)で宗家の直系血筋は途絶えました。秀忠・家光が三男と次男でそれぞれ嗣子となっているのは、その前の兄が早世しているためです(家康の次男・結城秀康は、家康が秀康の性傲慢なのを好まず秀忠を将軍にしたともいわれます)。
 宗家直系は四代・家綱で絶え、家康の直系は七代家継で終わっています。八代将軍吉宗は二代秀忠の異母弟・頼宣(紀伊家)の孫で、家康の曾孫に当たります。徳川宗家と御三家との血縁関係が疎遠になったことを危惧して御三卿を作ったのがこの吉宗でもあります。
 有名な話ですが、六代家継が危篤状態になったときの継嗣問題では、家継の父・六代家宣の正室である天英院と、家宣の側室・月光院(家継生母)の争いがありました。
 天英院が擁立したのは尾張藩主・徳川継友、一方の月光院が擁立したのは徳川吉宗。最終的に吉宗が後継者になり、継友は38歳で憤死したといいます(毒殺説もあります)。余談ですが、継友の弟・宗春は吉宗の幕府改革(倹約令)を批判して奢侈に流れ、その咎で隠居謹慎させられました。尾張藩は将軍家に恭順の意を示すため、幕末まで宗春の墓に金網をかぶせていたそうです。また、月光院は、絵島生島事件とも関連があります。
 因みに、将軍15代のうち、生母が正室であった将軍は家光と慶喜だけ。五代綱吉の生母・桂昌院は西陣の八百屋商人の娘で、落飾前の名前は「お玉」。所謂「玉の輿」の語源になったともいわれています(余談ですが、このお玉さんに因んで、西陣に近い今宮神社には「玉の輿お守り」があります。野菜の絵が刺繍されたお守りです)。

 宗家以外が継ぐことになった五代綱吉以降の徳川将軍家系譜は以下の通り。

 五代 ・徳川綱吉……四代家綱の弟、家光の四男。
 六代 ・徳川家宣……三代家光の三男・綱重(甲府藩主)長男。
 七代 ・徳川家継……六代家宣長子。
 八代 ・徳川吉宗……初代家康の六男・頼宣(紀伊藩主)の孫。父・光貞(二代目紀伊藩主)は家康の孫。
 九代 ・徳川家重……八代吉宗長男。
 十代 ・徳川家治……九代家重長男。
 十一代・徳川家斉……八代吉宗の子・宗尹(一橋家)の孫。
 十二代・徳川家慶……十一代家斉次男。
 十三代・徳川家定……十二代家慶長男。
 十四代・徳川家茂……十一代家斉長男・斉順(清水徳川家三代当主、十一代紀州藩主)の子。
 十五代・徳川慶喜……九代水戸藩主 徳川斉昭の子。

将軍在職期間

 将軍在職期間が最も長かったのは、11代家斉の50年間(1787年〜1837年)。
 この11代将軍家斉は、側室の人数が16人(歴代将軍の中では、家康の19人に次ぐ)、子女の人数が57人もいたといいます(余談ですが、家斉の次男である12代将軍家慶は、父・家斉の在職期間が長かったため、将軍に就任したのは45歳のときだったそうです)。
 精力の強さが寿命の長さに繋がったともいわれますが、多くの子女を残したのは、その子女と他大名とが婚姻関係を結ぶことによって、徳川家の地盤が固まることを期待してのことだったともいいます。しかしその思惑とは裏腹に、あまりにも多くの子女が生まれたことによって、徳川家の経済状態が逼迫したことが、幕府崩壊の遠因になったともいわれています。
 因みに、将軍在職期間が最も短かったのは15代徳川慶喜で、将軍に就任したのは1866年12月5日、辞任したのが1867年12月9日。また、慶喜は、将軍職を剥奪された唯一の将軍でもあります。
 幕府最後の将軍となった慶喜ですが、寿命は歴代将軍中最長寿で77歳でした。因みに、慶喜に次いで長生きだったのが初代家康です。

将軍の顔

 将軍のご飯は、あまり噛む必要のない柔らかい食べ物が多かったそうです。硬いものをほとんど食べなかった将軍たち、後期になるほど顔が面長であったそうです。
 顔が面長であるという特徴は、皇族や公家に特徴的な顔立ち。14代将軍家茂も、顔の長い面立ち(馬面)であったといいます。
 江戸時代の一般市井は、現代人に比べ丸顔で、鼻が低く、反っ歯であったようです。喜多川歌麿の美人画に描かれている女性は、江戸の一般市井に比べ面長・鼻が高い、いわば現代風美人。身分による顔立ちの違い(食べ物の違い)以外にも、同じ身分(町人同士)の中でも、江戸時代の人々には、顔の形に違いがあったようです。

参考文献:『広辞苑』第五版(岩波書店)、『百科事典マイペディア』(日立システムアンドサービス)、山口佳紀『暮らしのことば 語源辞典』(講談社)、『日本史用語集』(山川出版社)、花咲一男『大江戸ものしり図鑑』(主婦と生活社)、大石学編『大江戸まるわかり事典』(時事通信社)、江戸文化歴史検定協会・編『江戸文化歴史検定公式テキスト【上級編】』、河合敦監修『図解・江戸の暮らし事典』(学習研究社)、山本博文監修『見る・読む・調べる江戸時代年表』(小学館)、鈴木尚『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』(東京大学出版会)、篠田達明『徳川将軍家十五代のカルテ』(新潮社)、赤坂治績『知らざあ言って聞かせやしょう 心に響く歌舞伎の名せりふ』(新潮社)、エンサイクロネット『すぐに使える言葉の雑学』(PHP研究所)、八幡和郎『江戸三〇〇藩 最後の藩主』(光文社)