記・紀神話は皇室神話・宮廷神話として位置付けられており、その神話の中心にいるのは言うまでもなく皇祖神たるアマテラスである。
 アマテラス・ツクヨミ・スサノヲの三貴子誕生について考察した際に気付いたことだが、アマテラスの神名は、記では「天照大御神」で統一されている一方、日本書紀第五段正文(三貴子誕生譚)には、

 是に、共に日の神を生みまつります。大日孁貴と号す。一書に云はく、天照大神といふ。一書に云はく、天照大日孁尊といふ

とあり、紀においてその正式な神名はオホヒルメノムチであるかのように書かれていた。オホアナムチのように数多くの名を持つ神は、複数の神が一柱の神に統合された神であるとされているが、記・紀間のアマテラスの神名表記の違いは、同一神の異なる性質を強調して打ち出したもののような印象を受けた。
 そこで、同一神のこの神名の違いについて調査したところ、「一(=アマテラス大神・日の神)は祀られる日の神であり、他(=オホヒルメノムチなど)はそれを祀る聖女であるとの予感さえ覚える。」(三品彰英(※1))という見解や、「ヒルメが皇祖神化した神名がアマテラスオオミカミである」(西條勉氏(※2))とする論が見られた。更に、寺川真知夫氏は、アマテラスという神名のほうが新しくあまり受容されていなかったこと、政治的な部分(『皇太神宮儀式帳』などにおける記載)では天照大神の神名が統一的に用いられていたことを指摘しておられた(※3)。つまり、アマテラスとは政治的な意図(=皇祖神化)によって名を変えられたヒルメ、ということになる
 天照大御神(天照大神)という神名が「神」を核として美称から成り立っている神名であるのに対し、ヒルメは太陽神としての性質が前面に出た神名であるといえる。同一神の「アマテラス」と「ヒルメ」というこの神名の違いは、「アマテラスの皇祖神化」「皇祖神の交替」という問題と関わり合っているということが、先行研究に示されていた。皇祖神の交替とは、アマテラス以前には記・紀の天地初発条に登場するタカミムスヒ(記では高御産巣日神、紀では高皇産霊尊。天孫ホノニニギの外祖父とされる)が皇祖神であったとする説であり、現在では、タカミムスヒはアマテラス以前の皇祖神であった、という学説が定説となっている。しかも、アマテラスが皇祖神として最も重要な働きをする国譲り神話を含めた天孫降臨神話こそが、タカミムスヒがアマテラス以前の皇祖神であったとされる根拠とされているのである。かつて皇祖神の地位にあったのはタカミムスヒであり、且つ、現在の記・紀神話にもその断片が見てとれるということは、「皇祖神」アマテラスを中心に据えた記・紀神話のありようを再考する必要性があるということになる。
 タカミムスヒがアマテラス以前の皇祖神であったというのなら、何故皇祖神がタカミムスヒからアマテラスへ交替しなければならなかったのか、新しい皇祖神であるアマテラスの源流はどのような存在であったのか、アマテラスを中心とする記・紀神話はどこまでがアマテラス独自の神話として成立しているのか、など、多くの疑問が生まれてくる。その疑問について考えていくことが、アマテラスを中心とした記・紀神話のありよう、編者の意図や神話の意図を理解していくことに繋がるはずである。
 そこで、タカミムスヒとアマテラス独自の役割・その神話を比較しながら、記・紀を中心に日本神話における皇祖神について考察してみたい。

※1……三品彰英「天ノ岩戸がくれの物語」第六節(同氏著『三品彰英論文集第二巻 建国神話の諸問題』平凡社、一九七一年)
※2……西條勉「〈皇祖神=天照大神〉の誕生と伊勢神宮—古事記の石屋戸・降臨神話の編成—」(『国士舘大学国文学論輯』一五号、一九九四年)
※3……寺川真知夫「「天照大御神・高御産巣日神司令型天孫降臨神話の成立 その即位式・新嘗祭・大嘗祭とのかかわり」(『花園大学国文学論究』一四号、一九八六年)

従来の研究

 タカミムスヒとアマテラスの対比にあたり、最も重要となるのは天孫降臨神話神武東征条である。というのは、この二つの伝承において、タカミムスヒとアマテラスは天孫や神武天皇を導く立場にあるのだが、『古事記』や『日本書紀』の諸伝を比較すると、タカミムスヒが中心となって天孫降臨を司令する伝と、アマテラスが中心となって天孫降臨を司令する伝とが存在するためである。
 天孫降臨神話・神武東征の比較は三品彰英以来多くの研究がなされているが、皇祖神の問題を取り扱ううえで重要な事柄であるから、先学の研究を踏まえつつ検討を行うことにする。

 天孫降臨神話におけるタカミムスヒ・アマテラスの位置については、津田左右吉が「タカミムスヒが日の神(アマテラス)よりも優位を占めている」ことを指摘し、「タカマノハラの主宰者、天降りを命ずる神」「降られる神」「神宝」「神勅」「随従の神」といった要素に分けられた表を作成している(※1)。しかし津田左右吉は、タカミムスヒは後代になって天孫降臨に登場した神だとし、タカミムスヒが天孫降臨を司令する立場にあることについて、「オシホミミの命の妃の父とされている地位が更に一歩を進めて、皇祖神と考えられるようになったものと解せられる。」と述べている。ここではまだ、タカミムスヒがアマテラス以前の皇祖神であったと考えられてはいない。
 天孫降臨において画期的な表を作成したのは三品彰英で、天孫降臨神話を七つの要素に分け、そのうち四つの要素を天孫降臨神話要素中いずれの所伝にも含まれる「普遍的要素」、その他を「特殊要素」として区別した表を作成している(※2)。そして、普遍的要素のみから構成されている書紀正文及び第六の一書を最も古い伝とし、司令神がタカミムスヒからアマテラスへと変化したこと、降臨神がホノニニギから父神オシホミミ→御子ホノニニギへと変化したこと、降臨神の容姿が真床追衾で覆われた姿から御子神に変化していること、などを挙げた。三品彰英の研究では、稲穂を稔らす神であるホノニニギとタカミムスヒの関係は、ホノニニギとアマテラスの関係よりも根元的なものであるとされている(※3)。三品彰英はこの表によって、「アマテラス以前はタカミムスヒが皇祖神であった」ということを示したのである。
 三品彰英の論と関連して、ホノニニギが稲穂の神であることから、ホノニニギとタカミムスヒとに深い関係があったと論じているものに、松前健の研究(※4)がある。松前は更に、タカミムスヒ・カミムスヒの二神が御巫の八神殿の祭神であることから、この二神は皇室の守護神・氏神として重んぜられた神であるとし、更にホノニニギはタカミムスヒ・カミムスヒの裔であり、この二神が天孫降臨の原初的な司令者として相応しいと述べている。
 次に、天孫降臨神話の研究ではないが、タカミムスヒからアマテラスへの皇祖神交替に関して、その根拠に天孫降臨神話を挙げている説も見ておくことにする。
 民族学・文化人類学の見地から、タカミムスヒこそがアマテラス以前の皇祖神であったと述べたのは岡正雄(※5)である。岡は、①天孫降臨神話においてアマテラス大神の占める意味は、タカミムスビノ神のそれに対しむしろ極めて小さいものであること、②アマテラスの日神神話、特に天岩戸神話のモチーフと同じ説話は、南シナの苗族やアウストロアジア語系のカーシ族やナーガ族に見出されるものであり、タカミムスビ神話とは全く別系統の神話圏に属するものであること、③天神タカミムスビが、孫を山の峰に降下し地上を統治させる神話は、古朝鮮の檀君神話や大迦耶国の祖が亀旨峯に天降ったという開国神話に見られること、④タカミムスビ神話を伝承する進入民族がアマテラス神話を固有とする先住の米作農耕民を征服した結果、天皇族の文化と先住族の文化との混淆が進行したものである、と複数の例を列挙したうえで、先住族の文化は通婚によって取り入れられ、先住異族の母権母系母処婚制によって子女が母のもとで養育されたことにより、母方種族の文化が皇室に取り入れられ、アマテラス神話がタカミムスヒ神話を圧倒したのだと論じている。
 上田正昭(※6)もタカミムスヒこそがアマテラス以前の皇祖神であったと述べている。その根拠を箇条書きすると、①タカミムスビのみを中つ国平定の命令神とする伝承のほうが多く、アマテラスのみを命令神とするのは、わずかに第一の一書だけにすぎないこと(天孫降臨も同様)、②タカミムスビが宮中の御巫のまつる八神のひとつとされていること、③「皇祖」という表現が、神代史でもっとも早く用いられるのはタカミムスビであって、神武天皇の即位前紀には、神武帝がみずからタカミムスビを「顕斎」する説話さえが載っていること、④出雲国造の神賀詞においても、タカミムスビは「高天の神王タカミムスビノミコト」と称されており、しかもこの神の命令による中つ国の平定が、はっきりとしるされていること、などを挙げている。

 以上、天孫降臨神話と、それに関連して、皇祖神交替問題について論じられた代表的な先行研究を紹介した。タカミムスヒをアマテラス以前の皇祖神と考える最大の根拠を、天孫降臨神話においていることはどの説でも共通しており、皇祖神について考察するうえで、天孫降臨神話が避けて通れないということが分かる。
 そこで、多くの先行研究を踏まえたうえで自分なりに天孫降臨神話、そして神武東征条の考察を行い、私見を述べることにする。

※1……津田左右吉『津田左右吉全集第一巻』第三編第一四章(岩波書店、一九六六年)。
※2……三品彰英「天ノ岩戸がくれの物語」第六節(同氏著『三品彰英論文集第二巻 建国神話の諸問題』平凡社、一九七一年)
※3……三品彰英は更に、ホノニニギとムスビは一体的な神霊観から分化したものであるとしている(『三品彰英論文集第五巻 古代祭政と穀霊信仰』第五章、平凡社、一九七三年)。
※4……松前健『古代伝承と宮廷神話—日本神話の周辺—』第二章二〜三(塙書房、一九七四年)、「アマテラス神話の源流」(同氏著、『日本の神々』中央公論社、一九七四年)
※5……岡正雄「皇室の神話—その二元性と種族的文化的系譜について—」(伊藤清司・大林太良『日本神話研究2 国生み神話・高天原神話』学生社、一九七六年)
※6……上田正昭『日本神話』(岩波新書、一九七〇年)

天孫降臨神話の比較

 記・紀どちらにおいても、天地初発の段で誕生したタカミムスヒは、イザナキ・イザナミの国生み・神生み神話や天の石屋戸神話にはほとんど関与していない(「オモヒカネの親」という記述があるのみ)。しかしタカミムスヒは、「天孫降臨」という、記・紀において重大な出来事の際に、天孫降臨の司令者として突然登場してくる。
 『古事記』では、アメノオシホミミ降臨発令後、ひどく騒がしい葦原中国を平定するために、何度か神々が派遣されることになる。
 西條の表(西條勉「〈皇祖神=天照大神〉の誕生と伊勢神宮—古事記の石屋戸・降臨神話の編成—」(『国士舘大学国文学論輯』一五号、一九九四年))では、紀第二の一書もアマテラス系に含まれているが、実際にはタカミムスヒが国譲りを、アマテラスがオシホミミへの稲穂授与などをそれぞれ分担して行っているため、タカミムスヒ系とアマテラス系の「中間」——両方の伝承が混合された初期段階——とした方がより良いのではないかと私は考える。また、記の天孫降臨神話では司令神の神名表記が「タカミムスヒ・アマテラス」から途中「アマテラス・タカミムスヒ(タカギノカミ)」と変化しており、この部分にも考察が必要であると考えられるため、記と紀を別々にして表を作成した。

降臨発令 天菩比神派遣 天若日子派遣 鳴女派遣 建御雷神派遣
司令神 アマテラス タカミムスヒ
アマテラス
タカミムスヒ
アマテラス
アマテラス
タカミムスヒ
(タカギノカミ)
アマテラス
該当箇所 天照大御神の命以ちて、「豊葦原之千秋長五百秋之水穂國は、我が御子、正勝吾勝勝速日天忍穂耳命の知らす國ぞ」と言因さし賜ひて、天降したまひき。 爾に高御産巣日神・天照大御神の命以ちて、天の安の河の河原に、八百万の神を神集へに集へて、思金神に思はしめて詔りたまひしく……

是を以ちて高御産巣日神・天照大御神、亦諸の神等に問ひたまひしく、…… 故しかして、天照大御神・高御産巣日神、亦諸神等を問ひたまひしく、…… 是に天照大御神の詔らししく、……

 上の表を見ると、タカミムスヒはアマテラスと並んで、神々の派遣を司令しているということが分かる。タケミカヅチの派遣の際にはアマテラスが命令したという記述のみで、タカミムスヒの名が見られないが、タケミカヅチ・アメノトリフネがオオクニヌシと対面した時、「天照大御神高木神(タカミムスヒの別名)の命以ちて、問ひに使はせり」と言っているところから、葦原中国平定・国譲りはこの二神の命令によるものだということが分かる。
 この後、アメノオシホミミが降臨の支度をしている間に子供が生まれたため、アメノオシホミミではなくその御子神であるホノニニギが、父親に代わって葦原中国に降臨することになる。この天孫・ホノニニギの母親(アメノオシホミミの妻)が、タカミムスヒの娘・ヨロヅハタトヨアキヅシヒメであるから、タカミムスヒは天孫ホノニニギの外祖父ということになる。タカミムスヒが天孫の外祖父であるという記述は、紀第一の一書などを除いたほぼ全ての伝に見られる。
 『古事記』天孫降臨条では、上記表からも分かるように、司令神タカミムスヒとアマテラスの神名の順序が逆転するという錯綜が見られるが、全体としてより重きが置かれているのはアマテラスであるといえる。それは神田典城が指摘した(※1)ように、司令神の神名の記述がタカミムスヒ・アマテラスの順になっている場合には、アメノホヒ・アメノワカヒコという派遣が失敗した神々に司令した時であることや、天孫降臨に随伴する神々が天の石屋戸の条で活躍した神々であることから分かる。だがそれだけではなく、本来司令神がタカミムスヒであったものを、アマテラスへと変更していった痕跡が、記にも如実に表れているとも考えられる。
 天孫降臨発令以外でも、途中から二神の神名表記の順番が逆転していることや、タケミカヅチ派遣の際にアマテラスの神名のみが記述されていることなどから、アマテラスに重きを置こうという編者の態度がそこに反映しているものと考えられる。鳴女派遣以降は、タカミムスヒの神名が「高木神」となるが、これも神名表記の順序が逆転したこととあわせて、アマテラスに重きを置こうとする編者の態度の反映と考えることができるだろう。
 下に記における天孫降臨神話の諸要素を表としてまとめた。

天孫降臨条における諸要素(記)
司令神 派遣神 降臨神 随伴神 奉迎神 三種の神器譲渡 降臨地
アマテラス
タカミムスヒ
(タカギノカミ)
①アメノホヒ
②アメノワカヒコ
③タケミカヅチ・アマノトリフネ
アメノオシホミミ→ホノニニギ アメノコヤネ
フトダマ
アメノウズメ
イシコリドメ
タマノオヤ
(以上が五伴緒)
オモヒカネ
タヂカラヲ
アメノイハトワケ
アメノオシヒ
アマツクメ
サルタビコ 三種とも有 筑紫の日向の高千穂のクジフルタケ

 記とは異なり、紀では、天孫降臨を記載した伝が複数あり(第九段本文・第一、第二、第四、第六の一書)、更に諸伝の間に話の異同が見られる。既に三品彰英や西條勉が指摘しているように、天孫降臨を命令する神の違いによって、物語を構成する諸要素にも違いが見られるのである。
 異伝が多いので表にまとめ、更に司令神によって順序の入れ替えを行った。

[天孫降臨条における諸要素(紀)]
系統 タカミムスヒ系 中間 アマテラス系
紀本文 第四の一書 第六の一書 第二の一書 第一の一書
司令神 タカミムスヒ アマテラス
タカミムスヒ
アマテラス
派遣神 ①アマノホヒ
②オホソビノミ
③アメワカヒコ
④フツヌシ・
 タケミカヅチ

アメワカヒコ フツヌシ
タケミカヅチ
①アメワカヒコ
②タケミカヅチ・
 フツヌシ
降臨神 ホノニニギ(真床追衾) アメノオシホミミ
→ホノニニギ
アメノオシホミミ
→ホノニニギ
随伴神
アマノオシヒ
アメクシツノオホクメ

アメノコヤネ
フトタマ
アマノコヤネ
フトタマ
アマノウズメ
イシコリドメ
タマノヤ
(五部神)
奉迎神 コトカツクニカツナガサ※ コトカツクニカツナガサ※ サルタヒコ
三種の神器譲渡
宝鏡のみ 三種とも有
降臨地 日向の襲の高千穂峯 日向の襲の高千穂のクシヒの二上の峯 日向の襲の高千穂の添山峯 日向のクシヒの高千穂の峯 日向の高千穂のクジフルノ峯
※)便宜上コトカツクニカツナガサを奉迎神に分類したが、この神はホノニニギが「国覓ぎ」をしていった先で会った神であり、ホノニニギを迎えに来たとある紀第一の一書・記にあるサルタヒコとは性質が異なる。

 表を見ると、『古事記』が『日本書紀』の異伝を混合したものであるということがいえるであろう。
 『古事記』『日本書紀』の両方を見ると、タカミムスヒが単独で司令神である伝が三つ(紀本文、第四の一書、第六の一書)アマテラスとタカミムスヒがともに司令神である伝が二つ(記、紀第二の一書)、アマテラスが単独で司令神である伝が一つ(紀第一の一書)であり、タカミムスヒを司令神とする伝が多いことが分かる。
 三品彰英の研究(前節注2)から明らかなように、天孫降臨神話は書紀本文と第六の一書の成立が最も早い成立であり、次に第四及び第二の一書、古事記と第一の一書は更に発展した所伝であろう。更にいえば、タカミムスヒとアマテラスが共演している所伝を諸伝の中間形とする松村武雄の意見(※2)は納得のいく見解である。
 つまり、タカミムスヒが天孫降臨を司令する紀本文・第六の一書に続いて第四の一書が成立し、次にタカミムスヒとアマテラスの二神が共演するがタカミムスヒのほうに重きが置かれている第二の一書、同じく二神共演だがアマテラスに重きが置かれている古事記、そしてアマテラスが単独で天孫降臨を司令する第一の一書、という順序である。特に第一の一書には天壌無窮の神勅があり、この神勅が中国思想であることなどから、この伝が非常に発達したものであることは、先学の研究(※3)から明らかである。原史料に様々の要素が付加されていったものが記であり、その要素を整理したものが第一の一書であることは、直木孝次郎の研究(※4)で証明されている。天孫降臨条におけるアマテラスは、常に新しい成立であるとされる神名「天照大神」で登場しているが、このことも天孫降臨条にアマテラスが司令神として登場していることが、アマテラスを皇祖神として打ち出すための後の潤色であるとする証明の一つではなかろうか。紀第一の一書を除き、全ての伝にタカミムスヒが登場し、アマテラスに重きが置かれている記にあってさえ、タカミムスヒが共に司令を行っているということは、つまり、タカミムスヒがそれだけ国譲りから天孫降臨にかけての一連の神話に欠かせない存在であったということを示しているととれるだろう。
 既に多くの学者によって研究されている事柄ではあるが、タカミムスヒ系天孫降臨神話とアマテラス系天孫降臨神話の違いについて触れておく。
 まず降臨神についてであるが、天孫降臨神話において、降臨神がホノニニギであるということは、記・紀通じてどの伝も共通している。問題は、ホノニニギが降臨する前にその父神・アメノオシホミミを挟んだかどうか、ということにある。アマテラス系天孫降臨神話では、まずアマテラスの子であるアメノオシホミミが降臨しようとするが、降臨前にホノニニギが誕生し、オシホミミが御子神であるホノニニギに葦原中国統治権利を移譲している、という話の流れとなっている。
 最初からホノニニギを降臨させるか、あるいはアメノオシホミミを経てホノニニギを降臨させるか、伝によって差異はあるものの、最終的に降臨するのはホノニニギであり、それは葦原中国の君主がホノニニギであるという前提があったことを示している。
 このホノニニギは、『古事記伝』一五巻に「御名の義、穂之丹饒君にて、稲穂に因れる御名なり、丹とは、穂の赤熟めるを云」とあるように、稲の神、穀霊である。天孫が降臨する「高千穂」という地名、アマテラスから「斎庭の穂」を授けられること(紀第二の一書)、田を象徴する女神(吾田津媛)と結婚することなどからも、穀霊としてのホノニニギの姿が窺える。『日向国風土記(逸文)』には、ホノニニギが稲の穂を抜いて籾とし、その籾を周囲に投げたところ、空が晴れ、太陽も月も照り輝いた、という話が載せられているが、これはホノニニギが穀霊であることを表す最も端的な例であろう。
 タカミムスヒ系天孫降臨神話では、葦原中国に降臨する神は最初からホノニニギである。三品彰英や松前健によれば、タカミムスヒは穀物の生成に関わる神であるから、穀霊ホノニニギとも深い繋がりがあるという。本来はホノニニギとタカミムスヒにこそ深い結びつきがあったことは、天孫神話の比較から明らかである。
 一方、アマテラス系天孫降臨神話では、アマテラスとスサノヲとのウケヒの結果誕生した御子神・アメノオシホミミがおり、アメノオシホミミが降臨する前にホノニニギが誕生したため、降臨する神がホノニニギに変更された、という流れになっている。既に指摘されていることではあるが、アメノオシホミミの妻(ホノニニギの母、タカミムスヒの娘)であるトヨアキツシヒメが伊勢神宮正殿の相殿神とされており(『皇太神宮儀式帳』)、アマテラスと御子神アメノオシホミミよりもアマテラスとアメノオシホミミの妻に密接な結びつきが見られること、アメノオシホミミが宮廷で祭祀された記述が見られないこと、アメノオシホミミの活動として、ホノニニギに降臨を譲る以外の活動が見られないことなどから、アメノオシホミミの天孫降臨神話における位置づけやその原形に多く議論がなされており、アメノオシホミミは、本来血縁上関係のなかったアマテラスとホノニニギを結ぶ神であるという説、「天孫」ホノニニギを系譜上の孫と理解してアマテラスとホノニニギの間に一代挿入する可能性が生じたとする説、継体天皇が応神天皇の「五世孫」であり、それと対応させるため初代神武天皇をアマテラスの「五世孫」としようとした可能性があるとする説などがある。
 次に、これはタカミムスヒ系降臨神話における降臨神の特徴であるが、降臨神ホノニニギが真床追衾にくるまれているという点にある。真床追衾は山幸彦が海宮へ行った時にその上に座したとあり(紀第十段第四の一書)、また、豊玉姫が御子(ウガヤフキアヘズ)を草と真床追衾で包んだとある(同上)ことから、これにくるまれることは天神の家系であることを表すものと考えられる。
 随伴神に関しては、西條の表に明確に示されているが、タカミムスヒ系の随伴神は「神武東征」と、アマテラス系の随伴神は「天の石屋戸」と、それぞれ密接な関わりをもつ神々となっている。
 タカミムスヒ系天孫降臨神話と神武東征とが密接な関わりを持つことに関しては、この二つの神話がもともと一続きの建国神話・皇室起源神話であったことを示すものである。タカミムスヒ系天孫降臨神話において、天孫が神を伴わずに降臨する伝が二つ、随伴神が明記されている伝は第四の一書のみである。この伝では、随伴神はアマノオシヒ・アメクシツノオオクメとなっている。アマノオシヒは大伴連の祖であり、同じく大伴氏の遠祖・日臣命が神武東征に際してアメクシツノオオクメの子孫・大来目を率いたとあり、神武東征とタカミムスヒ系天孫降臨との関係が、このことによって示されている。日臣命は『姓氏録』にタカミムスヒの九世孫とあり、更にタカミムスヒの子孫である道臣命がアマノオシヒの子孫であるとあるから、天孫降臨の際にも神武東征の際にも、タカミムスヒの子孫神が同伴していたということになる。
 一方、アマテラス系天孫降臨に随伴する神が天の石屋戸に登場する神々(五伴緒、または五部神。次表参照)であるのは、天の石屋戸で示される太陽神としてのアマテラスと、天孫降臨神話に示される皇祖神アマテラスとを結合し、至上神アマテラスを強く打ち出すためと言うことが出来るだろう(※5)。また、アマテラス神話の母体である天の石屋戸で活躍する神々が天孫降臨に随伴するのは、本来はタカミムスヒ主導であった天孫降臨を、アマテラス主導のものへと変更した表れであるともいえよう。

天の石屋戸に登場する五伴緒(五部神)
所伝 登場する五伴緒(五部神)の神々
古事記 天兒屋命 布刀玉命 天宇受売命 伊斯許理度賣命 玉祖命
紀第七段正文 天児屋命
(中臣連)
太玉命
(忌部)
天鈿女命
(猨女君)


同第一の一書


石凝姥
同第二の一書 天児屋命
(中臣)
太玉
(忌部)



同第三の一書 天児屋命
(中臣連)
太玉命
(忌部首)

石凝戸辺
(鏡作)

( )内はその神を祖とする氏族

 記では、五伴緒に加えオモヒカネ・タヂカラヲ・アメノイハトワケという神も天孫降臨に随伴している。オモヒカネ・タヂカラヲは天の石屋戸の際に活躍した神である。アメノイハトワケは天の石屋戸には登場していないものの、名義は天の石屋戸に関わりがある神といえよう。
 記はアマテラス系天孫降臨とタカミムスヒ系天孫降臨の諸伝とを融合させたものであると考えられるから、タカミムスヒ系天孫降臨に登場するアマノオシヒ・アメクシツノオホクメをも随伴神に加えている。が、アマテラスが唯一単独で活動する紀第一の一書では、随伴する神が五部神のみとなっている。
 アメノコヤネ・フトタマは、もともとタカミムスヒ系であった天孫降臨神話がアマテラス系天孫降臨神話に移行していく過渡期に成立したと考えられる紀第九段第二の一書に登場している。この二神は天の石屋戸にも登場するが、第二の一書では、天孫のために天津神籬を祀れとタカミムスヒに命令されている。命令者タカミムスヒは「吾孫の為に斎き奉れ」と命令し、祀られる神は御巫祭神八座、すなわちタカミムスヒを含むムスヒ神五神を主としている。皇祖神であり王権の守護者であるタカミムスヒの姿が、ここでもまだ窺える。
 タカミムスヒ系にのみ見られる〈国覓ぎ〉とは、良い国を求めて各地を遊行することとある。アマテラス系天孫降臨神話にこの〈国覓ぎ〉が見られないのは、サルタヒコが自ら天孫を奉迎し、天孫の行くべき地を示すためである。アマテラス系天孫降臨神話において奉迎神が登場するのは、葦原中国が天孫のもとに統治される前提があるためであり、タカミムスヒ系第九段第四の一書のように、武装した神々が天孫に同伴し、天孫が〈国覓ぎ〉を行うのは、未だ天孫のもと葦原中国が統治されていないことを表しているのであろう。国譲りは行われたが、この後神武天皇が東征することで、葦原中国は本当の意味で統一されていくのである。
 タカミムスヒ系天孫降臨神話においては、奉迎神は登場せず、天孫がコトカツクニカツナガサという神に出会ったことが記述されているのみである。アマテラス系天孫降臨神話に登場する奉迎神・サルタヒコは、天孫の降臨地を示し、自身は伊勢の狭長田の五十鈴の川上に到ったという。五十鈴川はアマテラスが降臨したという記事が見られる場所である(※6)ことや、この神が伊勢内宮に宇治大内人として仕える宇治土公氏の祖神とされていることから、サルタヒコは、伊勢神宮及びアマテラスと関係が深い神であることが分かる。
 司令神から天孫への神勅は、アマテラス系天孫降臨神話にのみ見られる。この神勅の内容は、「此の豊葦原の水穂国は、汝知らさむ国ぞと言依さし賜ふ」(記)、「葦原の千五百秋の瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫、就でまして治せ。行矣。宝祚の隆えまさむこと、当に天壌窮り無けむ」(紀第一の一書)となっている。これが所謂「天壌無窮の神勅」であり、天皇の国土支配の正当性を主張する、政治性の強い神勅となっている。タカミムスヒの勅令も第二の一書に見られるが、それは「吾は天津神籬及び天津磐境を起し樹てて、当に吾孫の為に斎ひ奉らむ」という内容のものと、アメノコヤネ・フトタマに対し「天津神籬を持ちて、葦原中国に降りて、亦吾孫の為に斎ひ奉れ」と命令したものに過ぎず、天孫を葦原中国の君主として確約した「天壌無窮の神勅」とは質の異なるものである(タカミムスヒのこの勅令は、『古語拾遺』『旧事本紀』にも見られる)。祭祀性のみを帯びている素朴なタカミムスヒの勅令に対し、政治性を帯びたアマテラスの神勅が見られる記・紀第一の一書は、高度な意識のもと後期的に——天皇の絶対性が打ち出された時期に考え出されたものと推測される。三種の神器に関しても同様で、三種の神器に関する記述が見られるのはアマテラス系天孫降臨神話に分類される記及び紀第一の一書であり(紀第二の一書には宝鏡のみ記述が見られる)、王権の象徴として後に考案されたものであろう。
 以上のように、タカミムスヒ系天孫降臨神話とアマテラス系天孫降臨神話とを要素別に比較した時、そこには司令神交替に伴う明確な違いが見られる。簡潔に言えば、タカミムスヒ系天孫降臨神話では、神武東征との関わりが見られ、アマテラス系天孫降臨神話では、天の石屋戸や伊勢神宮との強い関わりが見られるということができるだろう。天孫降臨神話は言うまでもなく天皇の国家統一に不可欠な国家起源神話である。タカミムスヒとアマテラスという別々の神のどちらを主軸に据えるかによって、その神話にまつわる神々に顕著な違いが見られるようにあったのであろう。特に、後の成立と考えられるアマテラス系天孫降臨神話は、アマテラスの至上性を打ち出すために太陽神たるアマテラスを皇祖神として改変したものと考えられる。それは、随伴神・奉迎神など、アマテラスと関係の深い要素が盛り込まれていることから明白である。
 既に多くの研究がなされていることではあるが、改めて記・紀における天孫降臨神話の諸伝を比較することによって、本来はタカミムスヒが司令神であった天孫降臨神話がアマテラス司令のものへと変更されたこと、そして、タカミムスヒからアマテラスへの司令神交替に伴い、神話を構成する各要素にも変更があったことが再確認されたと言えるだろう。

※1……神田典城「高木神の性格とタカミムスヒ」(『古事記年報』二十四号)
※2……松村武雄『日本神話の研究』三(培風館、一九五五年)
※3……津田左右吉「日本古典の研究」上(同氏著『津田左右吉全集第一巻』、岩波書店、一九六三)
※4……直木孝次郎「『古事記』天孫降臨条の構成」(同氏著『日本古代の氏族と天皇』塙書房、一九六四年)
※5……三品彰英「日本神話論」五(『岩波講座 日本歴史二三』別巻二、岩波書店、一九八六年)では、天石屋戸隠れと天孫降臨の関連は、天孫降臨の司令神としてアマテラスが現れる段階以後のこととしている。
※6……『皇太神宮儀式帳』に「御坐地、度會郡宇治里、伊鈴河上之大山中。」とある。

記・紀以外の天孫降臨神話

 記・紀における天孫降臨神話の比較に続いて、記・紀以外の史料に記載されている天孫降臨神話についても考察を試みる。
 記・紀以外では『古語拾遺』、そして部分的ではあるが『延喜式祝詞』にも、天孫降臨神話に関する記載が見られる。ただし『延喜式祝詞』に記載のある天孫降臨神話の大半は、特定の神を指す神名が用いられていない。
 『古語拾遺』は、『延喜式祝詞』とは違って記述内容が詳細であるうえ、記・紀にはない記述が見られる。結論から言ってしまえば、『古語拾遺』ではタカミムスヒが皇祖神であると言明しており(ただし、アマテラスと並ぶ皇祖神として位置付けられている)、皇祖神タカミムスヒについて検討するうえで看過できない史料である。

〔古語拾遺〕
 『古語拾遺』では、国譲りを含めた天孫降臨神話は、以下のように始まっている。

 天祖吾勝尊、高皇産霊神の女、栲幡千千姫命を納れたまひ、天津彦尊を生みましき。皇孫命〔天照大神・高皇産霊神の二はしらの神の孫なり。故皇孫と曰ふなり。〕と号曰す。既にして、天照大神・高皇産霊尊、皇孫を崇て養したまひ、降して豊葦原の中国の主と為むと欲す。

 『古語拾遺』も記とほぼ同様、タカミムスヒとアマテラスの二神が並立して国譲り・天孫降臨を司令していく描き方をしている。
 フツヌシ・タケミカヅチによって国譲りが行われ、いよいよ天孫が降臨する時が訪れる。

 時に、天祖天照大神・高皇産霊尊、乃ち相語りて曰はく、「夫、葦原の瑞穂国は、吾が子孫の王たるべき地なり。皇孫就でまして治めたまへ。宝祚の隆えまさむこと、天壌と与に窮り无かるべし」とのりたまふ。即ち、八咫鏡及薙草剣の二種の神宝を以て、皇孫に授け賜ひて、永に天璽〔所謂神璽の剣・鏡是なり。〕と為たまふ。矛・玉は自に従ふ。即ち、勅曰したまはく、「吾が児此の宝の鏡を視まさむこと、吾を視るごとくすべし。与に床を同じくし殿を共にして、斎の鏡と為べし」とのりたまふ。仍りて、天児屋命・太玉命・天鈿女命を以て、配へ侍はしめたまふ。因りて、又勅曰したまひしく、「吾は天津神籬〔神籬は、古語に、比茂侶伎といふ。〕及天津磐境を起し樹てて、吾が孫の為に斎ひ奉らむ。汝天児屋命・太玉命の二はしらの神、天津神籬を持ちて、葦原の中国に降り、亦吾が孫の為に斎ひ奉れ。惟、爾二はしらの神、共に殿の内に侍ひて、能く防ぎ護れ。吾が高天原に御しめす斎庭の穂〔是、稲種なり。〕を以て、亦吾が児に御せまつれ。太玉命諸部の神を率て、其の職に供へ奉ること、天上の儀の如くせよ」とのりたまふ。仍りて、諸神をして亦与に陪従へしめたまふ。復大物主神に勅したまはく、「八十万の神を領て、永に皇孫の為に護り奉れ」とのりたまふ。仍りて、大伴が遠祖天忍日命をして、来目部が遠祖天槵津大来目を帥て、仗を帯びて前駆せしめたまふ。

 天壌無窮の神勅や神器譲渡などの話が見られる点は、『古語拾遺』がアマテラス系天孫降臨神話の影響を受けた結果であろう。「吾は天津神籬〔神籬は、古語に、比茂侶伎といふ。〕及天津磐境を起し樹てて、吾が孫の為に斎ひ奉らむ」という文言は、紀第二の一書においてはタカミムスヒの言葉とされている。斎庭の穂に関するくだりは、同じく紀第二の一書に見られるアマテラスの言葉(「吾が高天原に所御す斎庭の穂を持って、亦吾が児に御せまつるべし」)とほぼ同じ内容となっている。
 随伴神はアメノコヤネ・フトタマノミコト・アマノウズメ・諸神。アメノオシヒとアメクシツノオホクメが「前駆」したとあり、タカミムスヒ系とアマテラス系が混合した形式である。
 アマテラス系の特徴である神器に関する記述は、「八咫鏡及薙草剣の二種の神宝を以て、皇孫に授け賜ひて、永に天璽〔所謂神璽の剣・鏡是なり。〕と為たまふ。矛・玉は自に従ふ」というもので、「二種の神器」+「矛・玉」という形式となっており、記・紀と比較した場合に神器が二種か三種かという問題がある。紀第二の一書では、ホノニニギに授与される神器は宝鏡のみとなっているから(表[天孫降臨条における諸要素(紀)]参照)、時代が下るにつれ三種へとなっていったのではないだろうか。
 『古語拾遺』における天孫降臨神話において注目すべき点は、タカミムスヒとアマテラスを「天祖」(天孫降臨神話)「皇天二祖」(神武天皇条)としていることである。つまり、『古語拾遺』の記述態度として、タカミムスヒとアマテラスの二神をともに皇祖神として置こうとしていたということになる。紀第二の一書同様、タカミムスヒからアマテラスへの皇祖神交替が行われていく過渡期に成立したものと考えることができるだろう。

〔延喜式祝詞〕
 断片的ではあるが、『延喜式』祝詞にも国譲り・天孫降臨に該当する記述が見られる。該当箇所を以下に掲げる(二重下線部は、天孫降臨を司令する神を示す)。

[大殿祭]
 高天の原に神留ります、皇親神ろき・神ろみの命もちて、皇御孫の命を天つ高御座に坐せて、天つ璽の劔・鏡を捧げ持ちたまひて、言壽き宣りたまひしく、「皇我がうづの御子皇御孫の命、この天つ高御座に坐して、天つ日嗣を萬千秋の長秋に、大八洲豊葦原の瑞穂の國を安國と平らけく知ろしめせ」と、言寄さしまつりたまひて、……
[六月の晦の大祓]
 高天の原に神留ります、皇親神ろき・神ろみの命もちて、八百万の神等を神集へ集へたまひ、神議り議りたまひて、「我が皇御孫の命は、豊葦原の水穂の國を、安國と平らけく知ろしめせ」と事依さしまつりき。かく依さしまつりし國中に、荒ぶる神等をば神問はしに問はしたまひ、神掃ひに掃ひたまひて、語問ひし磐ね樹立、草の片葉をも語止めて、天の磐座放れ、天の八重雲をいつの千別きに千別きて、天降し依さしまつりき。
[鎮火祭]
 高天の原に神留ります、皇親神ろぎ・神ろみの命もちて、皇御孫の命は、豊葦原の水穂の國を安國と平けく知ろしめせと、天の下寄さしまつりし時に、……
[御魂を斎戸に鎮むる祭]
 高天の原に神留ります、皇親神ろき・神ろみの命をもちて、皇孫の命は、豊葦原の水穂の國を安國と定めまつりて、……
[祟神を遷し却る]
 高天の原に神留りまして、事始めたまひし神ろき・神ろみの命もちて、天の高市に八百万の神等を神集へたまひ、神議り議りたまひて、我が皇御孫の尊は、豊葦原の水穂の國を、安國と平けく知ろしめせと、天の磐座放れて、天の八重雲をいつの千別きに千別きて、天降し寄さしまつりし時に、誰の神をまづ遣はさば、水穂の國の荒ぶる神等を神攘ひ平けむと、神議り議りたまふ時に、諸の神等皆量り申さく、天の穂日の命を遣はして平けむと申しき。ここをもちて天降し遣はす時に、この神は返言申さざりき。次に遣はしし健三熊の命も、父の事に隨ひて返言申さず。また遣はしし天若彦も返言申さずて、高つ鳥の殃によりて、立處に身亡せにき。ここをもちて天つ神の御言もちて、また量りたまひて、ふつ主の命・健雷の命二柱の神等を天降したまひて、荒ぶる神等を神攘ひ攘ひたまひ、神和し和したまひて、語問ひし磐ね樹の立・草の片葉も語止めて、皇御孫の尊を天降し寄さしまつりき。
[出雲国造神賀詞]
 高天の神王高御魂の命※の、皇御孫の命に天の下大八島國を事避さしまつりし時に、出雲の臣等が遠つ神天のほひの命を、國體見に遣はしし時に、天の八重雲をおし別けて、天翔り國翔りて、天の下を見廻りて返事申したまはく、『豊葦原の水穂の國は、晝は五月蠅なす水沸き、夜は火瓮如す光く神あり、石ね・木立・駙水沫も事問ひて荒ぶる國なり。しかれども鎮め平けて、皇御孫の命に安國と平らけく知ろしまさしめむ』と申して、己命の兒天の夷鳥の命にふつぬしの命を副へて、天降し遣はして、荒ぶる神等を撥ひ平け、國作らしし大神をも媚び鎮めて、大八島國の現つ事・顯し事事避さしめき。

※……「高御魂神魂命」とする写本も存在する。

 『延喜式祝詞』では、天孫降臨は皇親カムロキ・カムロミの命令によって行われたとする記述が圧倒的に多く、神名が明確に記されているのは出雲国造神賀詞のみである。
 『続日本紀』も『延喜式祝詞』同様、カムロキ・カムロミが自分の孫(天孫)に天下を治めよと命令したことが記されている(二重傍線部は、天孫降臨を司令する神を示す)。

〔続日本紀〕
[聖武・神亀三年]
 高天原爾神留坐皇親神魯岐神魯美命、吾孫將知食國天下止與佐斯奉志麻爾麻爾、……
[孝謙・天平勝宝元年]
 高天原神積坐皇親神魯棄神魯美命以、吾孫乃命乃將知食國天下止言依奉乃随、……
[孝謙・天平宝字元年]
 高天原神積坐須皇親神魯岐神魯彌命乃定賜來流、……
[孝謙・天平宝字二年]
 高天原神積坐皇親神魯弃神魯美命、吾孫知食國天下止事依奉乃任爾、……

 上記の四つの宣命ではいずれも、皇親カムロキ・カムロミが自分の孫(皇孫)に天下を治めよと命令したことが記されている。カムロキは男神、カムロミは女神をそれぞれ表し、皇親カムロキ・カムロミとは、天皇の祖先である男女の神々を意味している。つまり、皇親カムロキ・カムロミが皇祖神であり、天孫降臨の司令者であり皇祖神、ということになる。

カムロキ・カムロミ

 『延喜式祝詞』及び『続日本紀宣命』では、ほぼ全ての伝承で天孫降臨の司令神は皇親カムロキ・カムロミとされている。
 それでは、皇親カムロキ・カムロミとは一体どの特定の神を指しているのであろうか。
 出雲国造神賀詞にのみタカミムスヒの命令で天孫降臨が行われたことが明記されている。しかもここに「高天原神王高御魂神魂命」とある底本があり(※1)、これを受けて親カムロキ・カムロミとしていること、『古語拾遺』にタカミムスヒを皇親カムロキ、カミムスヒを皇親カムロミとしてあることから、タカミムスヒ・カミムスヒが皇親カムロキ・カムロミである可能性が生じてくる(※2)。この二神は『古事記』においては獨神とある一方、カミムスヒについては「御祖命」つまり御母神とある。西郷信綱によれば、記に登場する「御祖」とはいずれも母親を指しているという(※3)
 孝徳紀白雉元年では、「神祖」を「カムロキ」として祖先神一般を指しているから、カムロキ・カムロミとある場合には特に男性神・女性神の両方を指そうという意図があるものと考えられる。『常陸国風土記』香島郡の条には、天と地がひらけた以前、すべての神々の祖先である天つ神をカミルミ・カミルキといったとあり、それは天地初発条に登場する生成神タカミムスヒ・カミムスヒに当てはめることも出来るだろう。松村武雄はカミムスヒを「タカミムスヒの female counterpart」と述べているが(※4)、確かにカミムスヒは女神として表現されているから、タカミムスヒ・カミムスヒ二神が本来は対偶神(カムロキ・カムロミ)であったと考える余地は充分にある。平田篤胤は、タカミムスヒ・カミムスヒの二神がカムロキ・カムロミであり、二神を男女の区別なしにいうとき「神王」という言葉を使うのではないかとしている(※5)。記の冒頭で高天原に最初に生じた三神のうち、対偶的な神名を持つタカミムスヒとカミムスヒが神王でありカムロキ・カムロミというのは、納得のできる意見である。
 しかしまた、記に見られる

 高御産巣日神・天照大御神の命以ちて、天安河原の河原に八百万の神を神集へに集へて、思金神に思はしめて詔らししく、「此の葦原中国は、我が御子の知らす国と言依さし賜へる国ぞ。……」

 というくだりと、『延喜式』六月の晦の大祓に見られる

 皇親神ろき・神ろみの命もちて、八百万の神等を神集へ集へたまひ、神議り議りたまひて、「我が皇御孫の命は、豊葦原の水穂の國を、安國と平らけく知ろしめせ……」

 というくだりの酷似などから、カムロキ・カムロミがタカミムスヒ・アマテラスであるととる見解もある(※6)。だが、先に述べたように、記の天孫降臨神話は、皇祖神がタカミムスヒからアマテラスへと移行する過渡期であったために二神共演の形をとっているのであり、本来の皇親カムロキ・カムロミがタカミムスヒ・アマテラスであるとは言い難い。カムロキ・カムロミという対偶的な名称からしても、全く異なる神名構造のタカミムスヒ・アマテラスが皇親カムロキ・カムロミであると考えるのは難しいだろう。タカミムスヒとアマテラス、対偶神でない二神がカムロキ・カムロミとされているのは、皇祖神として認識されている神がタカミムスヒとアマテラスであったためではないだろうか。
 かつての皇祖神がタカミムスヒであるならば、その対偶神となるのはカミムスヒという考えが自然ではあるが、カムロキ・カムロミがタカミムスヒ・カミムスヒであるととれるのは出雲国造神賀詞のみであることから、漠然と男女の皇祖神を示す語であるとも考えられる。
 あるいは、天孫ホノニニギの祖先神として考案された固有名を持たない時代のタカミムスヒが、皇親カムロキであったのかも知れない。

※1……最古の写本である九条家本には記載がない。
※2……鈴木重胤は、タカミムスヒ・カミムスヒを皇祖カムロキ・カムロミとしている(『日本文学古註大成 祝詞講義』上巻、日本図書センター、一九七九年)
※3……西郷信綱『古事記注釈』第一巻、三六〇頁(平凡社、一九七五年)
※4……松村武雄『日本神話の研究』第二巻(培風館、一九五五年)
※5……平田篤胤「古史伝 一之巻」(『平田篤胤全集』第一巻、名著出版、一九七八年)
※6……『中臣義解』(『神道大系古典註釈編八 中臣祓註釈』、神道大系編纂会、一九八五年)には、「漏岐漏美文、謂、此云二牟津祖、天照太神、高皇産霊神二柱」とある。

天孫降臨神話における比較・むすび

 国譲りから天孫降臨神話にかけての一連の神話が、古くは司令神をタカミムスヒとしていたことは既に定説となっている。記・紀比較や、記・紀以外の史料によってそのことが認められている。紀本文や第六の一書が最も古い型であり、記を経て最終的に紀第一の一書に見られる型へと変遷していったことは私も同意見である。
 ただ、国譲り神話に関していうならば、紀本文は派遣神が多く後世的なものではないかという上田正昭の見解(※1)もある。国譲り神話をも加味して考えるならば、最も古い型は、恐らく最も単純に記述されている『延喜式祝詞』の出雲国造神賀詞ということになろう。出雲国造神賀詞によれば、皇孫に命令を下したのは神王タカミムスヒ・カミムスヒであり、その二神が皇親カムロキ・カムロミであるとされている。
 タカミムスヒが司令する天孫降臨神話とアマテラスが司令する天孫降臨神話を比較すると、そこには明確な違いが見られる。その最たるものが①降臨神、②奉迎神、③随伴神、④三種の神器の有無 の四点である。特に③随伴神については、タカミムスヒ系ではタカミムスヒの子孫であるアマノオシヒ・アメクシツノオオクメ、アマテラス系では天の石屋戸神話に登場した神と、明確な違いが見られる。それは二系統の天孫降臨神話が、もともと全く別系統の神話であるということを表しているとも考えられるだろう。このことについては、後述することにする。

※1……上田正昭『日本神話の世界』第五章 一(創元社、一九六七年)

神武東征条の比較

 最初の天皇となる神武天皇の東征は、建国神話上欠かすことのできない重要事である。舞台となるのは葦原中国であり、タカミムスヒやアマテラスは表立って登場することはなく、夢に登場する・ヤタガラスを遣わすといった間接的な関与によって、神武天皇に対し助力を行っている。

高倉下の夢に登場する神:アマテラス (記・紀)、タカミムスヒ=高木神(記)
ヤタガラスを派遣した神:タカミムスヒ=高木大神(記)、アマテラス(紀)

 紀によれば、神武天皇の助力を行っている神はアマテラス(単独)であるが、①記ではタカミムスヒも神武に対して助力を行っていることが記されていること、②神武東征条において、紀におけるアマテラスの神名が新しい神名である「天照大神」に統一されていること、③神武天皇が東征の際に「昔我が天神、高皇産霊尊・オホヒルメノミコト、此の豊葦原中国を挙げて、我が天祖彦火瓊瓊杵尊に授けたまへり。……」(紀)と発言していることなどから、神武東征も天孫降臨神話同様、タカミムスヒが関与していた形が本来のものであると考えられる。③神武天皇の発言は、東征を行うにあたって、タカミムスヒ・アマテラスが葦原中国を自分の祖先(ホノニニギ)に授けたのであるから、自分が葦原中国を統治することが正当であることを宣言したものであり、ここでアマテラスの神名は古い名であるオホヒルメノムチで表記されていることから、この宣言は古くから神武東征の冒頭にあったものであると推測できる。更に、天孫降臨神話の箇所で述べたように、タカミムスヒ系天孫降臨神話と神武東征神話との間には結びつきが認められる。
 タカミムスヒは孫のホノニニギを降臨させるため、地上平定のための神々を派遣した。あるいは第四の一書のように、ホノニニギを降臨させる際にアマノオシヒやアメクシツノオオクメといった武装した神々を護衛につけた。ホノニニギはそこから〈国覓ぎ〉をして良い国を求めて行き、神武天皇が今度は日本全国の統一に乗り出すのである。その際神武天皇に同伴するのは、ヒオミノミコトとオオクメであり、これは天孫降臨の際のアマノオシヒ・アメクシツノオクメ=大伴・久米の関係と同様なのである。これはつまり、タカミムスヒを祖とする氏族が大伴・久米を連れて国家統一に乗り出したということを意味しており、本来はタカミムスヒ系天孫降臨神話と神武東征条が、一続きの伝承であった可能性を示唆している。
 逆に、アマテラス系天孫降臨神話で登場した神々は、神武東征には登場していない。そのことも、神武東征条におけるアマテラスの関与が、本来的な東征条の形ではなかったということを示しているといえるだろう。

タカミムスヒとアマテラスの対比・むすび

 既に多くの研究がなされているように、天孫降臨神話と神武東征条にはアマテラスだけでなくタカミムスヒが関与している。そして、記・紀の諸伝を比較したとき、アマテラスよりもタカミムスヒの権限・活躍が大きいことも指摘されてきた。第一章では先学の研究を踏まえつつ、天孫降臨神話及び神武東征条に関するタカミムスヒ・アマテラスの位置付けを考察することによって、タカミムスヒからアマテラスへの皇祖神交替という問題について、再認識ができた。
 天孫降臨神話・神武東征条は、本来はタカミムスヒのものであり、アマテラスの関与は後期的なものである。そこで次章では、このような神話の混合の中でタカミムスヒ・アマテラスを対比するのではなく、タカミムスヒとアマテラス、それぞれの役割について考察することによって、タカミムスヒとアマテラス、それぞれの性質を明らかにしていきたい。