動物のこと

蛇について

 蛇といえば、近世文学『雨月物語』の「蛇性の淫」に象徴されるように、性奔放、狡猾さ、悪の象徴のように捉えられている。
 聖書に登場する蛇は、イブに「知恵の実」を食べることを勧め、人類が楽園を追放されるきっかけを作るなど、悪心を持つ存在として描かれている。この蛇は、アダムの最初の妻・リリスであるともいわれている。リリスは性奔放で、アダムに従わず悪魔と交わって多くの子を産んだ。リリスと悪魔の間の娘がリリトで、こちらも性奔放な女魔である。とはいえ、性奔放であるということは、多産や繁栄、ひいては豊饒をも意味しているから、古代においては必ずしも否定されることではなかった。性器崇拝は日本以外にも世界各地に見られるが、いずれも子孫繁栄、豊饒を祈願してのものである。
 話を戻すと、日本神話において有名な蛇は「ヤマタノヲロチ」であろう。ヲロチのヲは峰(ヲ)、ロは助詞、チは霊、霊力を意味する。蛇にはまたミヅチというものがあり、これは「水つ霊」である。蛇は水の精霊であるから、水田耕作を主な生業とする日本人にとっては祭礼の対象である。クシナダヒメももともとは、ヲロチに仕える巫女であり、出雲神話が朝廷神話に取り入れられるに際して、土地の神ヲロチが悪神となり、巫女クシナダヒメはそのヲロチにさらわれる存在へと変化していったという説もある(ヤマタノヲロチは水害の象徴であり、スサノヲがそれを平らげた英雄神とする説もある。また、ヤマタノヲロチの尾から草薙剣が出てきたことから、ヤマタノヲロチは肥の河の象徴であり、製鉄神話と関連があるという説もある)。
 ヤマタノヲロチの説明については、記に「身一有八頭八尾亦其身生蘿檜榲其長度谿八谷峡八尾……」とあるが、紀には「頭尾各有八岐」とある。紀にあるように、頭と尾に八つ分かれ目があるなら「八俣」の名は相応しいけれども、記にあるように「八頭八尾」だと、頭と尾の分かれ目は七つなければならない。本来は数が多いという意味での「八」(「八百万」の「八」などと同じ用法)を実際の数に当てはめようとした結果、伝によって違いが生じたのかも知れない。
 余談であるが、蛇は脱皮することから、再生、不老不死の象徴ともされた。自らの尾をくわえたウロボロスは、始まりも終わりもない完全なものの象徴とされた。自らの尾をくわえたウロボロスの形状は、「∞」という字のもととなったともいわれている。蛇は他に、カドゥケウス(ケーリュケイオン)のように商業と関連するものや、アスクレピオスの杖のように医療と関連したものに用いられる場合もある。

鳥について

 『古事記』には天の鳥船という神が登場する。この神は、イザナキ・イザナミから生まれた神で、建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ。「建御雷神」とも)とともに地上へ派遣され、「国譲り」を成功させる神である。この神はまた、「鳥之石楠船神」という別名を持っている。
 地上に派遣された鳥之石楠船神の神名からも窺うことができるが、鳥は天と海の両方に通うものとされていたた。そこで、鳥は死者の魂を天へ運ぶ存在と見なされていたらしく、葬送儀礼に登場している。『古事記』で、アメワカヒコが亡くなったとき、河雁をキサリモチとし、鷺を掃持とし、翠鳥(カワセミ)を御食人とし、雀を碓女とし、雉を哭女としたという記述がある。
 ヤマトタケルは薨去した後、八尋白智鳥(紀では白鳥)となり、空へのぼっていったという。死者は天へと還るとした信仰が「カムアガリ」で、これは山上他界観とも結びついているようだ。これとは逆に、死者が黄泉へ還るのが「カムサリ」であるという。カムアガリはまた、鳥葬といった風俗とも結びついている。
 白鳥が瑞兆と考えられる一方で、『延喜式祝詞』「遷却祟神」には、「高津鳥殃」という語が登場する。これは空飛ぶ鳥によってもたらされる災いのことをいい、具体的には、雉(天神の使い)を射殺したために、その矢を射返されて殺されたアメワカヒコの話を指す。同じく『延喜式祝詞』「大殿祭」には「天の血」が、「六月晦大祓」には「高津鳥災」が登場する。「六月晦大祓」で鳥がもたらす災いは「国津罪」に数えられている。