神仏習合

 神仏混淆ともいわれます。神(神道)と仏(仏教)を同化させたもので、起源は奈良時代にあります。
 平安時代、「神の本地は仏であり、仏が人を救うため神となり垂迹(仏や菩薩が衆生を救済するため仮の姿をとって現れることを指します)した」とする本地垂迹説が起こり、鎌倉時代以降盛んになりました。本地垂迹説では、例えば熊野は阿弥陀仏、八幡は釈迦の垂迹とされていました。神号として用いられる「権現」とは、仏教で権(かり。仮と同じ)の姿をいったもので、神々が仏・菩薩の権化であることから、神号として用いられるようになりました。八坂神社の祭神・素戔鳴尊が疫病退散の神・牛頭天王と習合して、疫病退散の祭りである「祇園祭」が行われるようになったともいわれます。
 江戸時代、国学の隆盛とともにいわれたのが「復古神道」で、これは本居宣長が唱え、平田篤胤によって大成したもの。幕末期の尊皇攘夷運動の理念の一つともなりました。「復古」というのは古史(記紀など)の伝えに忠実に従う、儒教や仏教の説を交えないものであることを指します。
 明治時代に「神仏分離」、「廃仏毀釈」などが行われたのは、この復古神道の考えと深い関係があります。明治時代の政治理念は「王政復古」であり、それは昔 朝廷が行っていた政治体制をとるというものでした。昔の政治は祭政一致であり、その「祭」が「神道」だったのです。神道が主に『古事記』『日本書紀』といった宮廷が編纂した歴史書にのみ見られるのは、かつての政治が祭政一致であり、国を支配していた大和朝廷が信仰していたのが神道であったからです。ゆえに、記紀にある神話は「日本古来の民族神話」というわけではないということもいわれますが(政治と結びついた時点で、神話に政治的潤色が加えられているため)、現在も残る祖先崇拝・産土神崇拝などは庶民のものであった古来の神道といえるかも知れません。
 明治時代に出された「神仏分離令」は、神道が時代を経て、儒教や仏教の影響を受けてきたことに対し、古来の神道を復活させようという「復古神道」の影響を受けています。神仏習合などに代表されるように、神と仏は同一視されていました。そこで、神と仏とを切り離して神道を独立させ、神道を国教にするためになされた宗教政策が、この「神仏分離令」です。これをきっかけとして、仏教排斥・仏像や仏具の破壊が各地で起きました。これが「廃仏毀釈」です。
 現在の日本人は大半が無信仰ですが、お葬式は大抵が仏式です。新しく建物を建てる時の地鎮祭は神道です。初詣は神社・寺院どちらにも用います。「神様仏様」のように、神道と仏教の違いについては意識していないことが多いようです。

参考

 『広辞苑 第五版』岩波書店、『百科事典マイペディア』(日立システムアンドサービス)