ことば

 『古今和歌集』仮名序に、次のような記述があります。

 やまと歌は人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける

 「日本文化④:言霊信仰」でも少し触れましたが、事(こと)と言(こと)とは語源が同じと考えられています。言葉すなわち「言」によって口に出されたことが、現実の「事」になるという考えが、日本人にはあったようです。それゆえ日本人はことばをとても大切にし、祝詞や寿詞といった「ことばの呪力」によって天皇の治世を祝福していました。
 『古今和歌集』でいう「言の葉」には、「和歌」といった意味で用いられていますが、「言葉」とは、ことばが単なる字の連なりではなく、「葉」のように、心を種として生じ、広がり生い茂るものという考えからこの漢字をあてたと考えることができるのではないでしょうか。
 ことばはまた、時代によって失われ、あるいは変化する「生きもの」とさえいわれます。
 このページでは、管理人がその語源・かつての意味が興味深いと感じたことばについて、いくつか御紹介しています。

ありがたい

 漢字で書くと「有り難い」で、「存在が稀である、珍しい」が本来の意味。そこから「世にも珍しいほど立派で、優れている」「恐れ多い、尊い」の意にもなりました。
 「ありがとう」ということばは、日本語では感謝のことばとして最もよく用いられます。
 中世期に「世にも珍しく得がたい」神仏の慈悲を受けているという神仏への感謝の気持ちを言い表すようになり、それが近世期に、感謝の気持ち全般を表すことばとして用いられるようになったといいます。
 因みに古語では、存在するという意の「あり」に、難しいという意味の「がたし」がついて、「生活しにくい」の意で用いられもします。

はずかしい

 有名な古語ですが、「はづかし」は現在の「恥ずかしい」のこと。ただし「はづかし」は、「こちらが気恥ずかしくなるほど(相手が)立派で優れている」という意もあります。
 古語でも、現代の「恥ずかしい」とほぼ同じような意味でも用いられていますが、「相手が自分より立派だと感じて気後れする」など、相手と自分との間で生じる感情であったのかも知れません。自分が恥ずかしいと思うほど相手が立派、ということは、相手への讃美を意味することばでもあります。

あきらめる

 古語「あきらむ(明らむ)」は「物事をよく見る、見極めて明らかにする」、「心の中をあかす、気持ちを晴らす」の意。
 そのため、本来は「これ以上ないほど物事を見極め、明らかにした状態」、つまり自分の努力が最高まで到達したことをいったのではないかと考えられます。これに対し、現代用いられる「あきらめる」は、どちらかといえば「挫折」を意味しています。古語「あきらむ」に「断念」の意が用いられるようになるのは、近世以降だとされます。
 「あきらめる」は漢字で「諦める」と書きます。「諦」にはもともと「真理」の意があり、仏教で「真理を観察すること」を意味する「諦観」は、「あきらめる(断念する)」の意でも用いられます。

めでたい

 「愛で」+「甚し(いたし)」の約といわれます。
 「めづ」は「愛する、賞讃する」の意で、「愛でる」と同様。「いたし」は「甚だしい」で、「めでたし」はもとは、「甚だしく愛すべきである」の意であったと考えられています。古語では「魅力的だ、心が惹かれる」、「立派だ、素晴らしい」の意で用いられています。
 祝福する以外にはないほど立派なもの、素晴らしいものを表すことばで、それが現在では祝福すべき喜ばしいことを言い表すことばになったものと考えられます。

かなしい

 現在は「悲しい」つまり、悲嘆、つらさなどの心情を表すのに用いられますが、「愛し」とも書いて「可愛い、愛しい」の意でも用いられていました。愛情のほか、感動 や恐怖心を言い表すのにも用いられています。
 「かなしい」の「かな」は、「〜しかねる」のカネと同根と考えられ、自分の力が及ばないほど強い心の動きを言い表すことばだといいます。

やさしい

 「やさし」はもとは動詞「痩す」の形容詞形で、「身も痩せるように感じる、心苦しい」が本来の意味でした(万葉集巻五・八九三「世の中を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあれば」等)。
 そこから転じて「周囲の人に気を遣って控えめである」、「優美で、上品である」、更に「殊勝である、健気だ」となったといわれます。

かしこい

 「かしこし」が語源。「かしこし」は「畏し」あるいは「恐し」と書き、神仏への恐ろしさを言い表したことばです。
 ただ、単に恐怖を言い表したことばではなく、「かしこし」は神仏への畏敬——恐れながらも、神聖なものとして敬う気持ちをいうことば。そこから転じて、中古以降は学識や才能があることを指すようになりました。
 「かしこまる」も同源。また、女性が手紙の末尾に用いる「かしこ」という語も同根です。

つつがない

 日本の愛唱歌「ふるさと」でも、「恙なきや友がき」という一節があります。「つつがない」は「息災である」の意で、「つつが」とは病気などの災難のことをいいます。
 「つつが」には他に「ツツガムシ」の意もあります。このツツガムシの幼虫に刺されると病気を引き起こすことから、「つつが」が病気の意となり、「つつがない」が「病気がない、健やかな状態である」を意味するようになったと考えられます。

おさがり

 現在は、兄姉などの年長者から譲られた物品を指すことが多いですが、もともとは神仏のお供え物を取り下げたものや、お客様に出した食べ物の残りのことをいいました。
 神仏にお供えしたものの残りを頂く(「直会(なおらい」)ということは、神仏の加護を頂くということにもなり、それがお雑煮に餅を入れる行為にも繋がっています(お雑煮に入れる餅は、神仏に捧げた餅の残りでもあります)。

参考

 『広辞苑 第五版』(岩波書店)、『百科事典マイペディア』(日立システムアンドサービス)、山口佳紀編『暮らしのことば 語源辞典』(講談社)、エンサイクロネット『すぐに使える言葉の雑学』(PHP研究所)