花のこと

桜について

 桜の木の下には死体が埋まっている――。
 これは梶井基次郎『桜の樹の下に』に見られる一節です。
 桜という花は、日本人が昔から愛してきた花です。平和な江戸時代には桜の品種改良も行われ、現在桜を代表する品種「ソメイヨシノ」が生まれたのもこの頃。花見の習慣も、この時代に広まりました(隅田堤への桜の植樹や品川御殿山への吉野の桜植樹は、八代将軍吉宗の政策でした)。
 これは一般によく知られていることではありますが、現存する日本最古の和歌集である『万葉集』には、桜よりも梅の花を詠じた歌が多いです。これは大陸――中国――文化の影響であるといいます。桜が「花」の代表となり、日本人の心を反映するものとされるのは、それよりも時代が下ってからのことです。
 『万葉集』同様、上代文学に分類される『古事記』『日本書紀』には、桜の神格化・木花佐久夜姫(コノハナノサクヤビメ)が登場します。この女神は、天孫――皇室の祖先神・アマテラスの孫――と結婚し、子供をもうけます。この女神のもう一つの名は「神阿多都姫」(カムアタツヒメ。紀には「神吾田鹿葦津姫」などとあります)で、この神名は地名に因んだという説と、田の女神であることを意味しているとの説があります。コノハナノサクヤビメという名がよく知られますが、記には「大山津見神之女名神阿多都比賣亦名謂木花佐久夜毘賣」とあるので、カムアタツヒメが本来の名称であったのかも知れません。美しい女性を桜の花に喩えたその神名がそのままこの女神の名称になってしまったとも、桜の花が人に愛されているので、天孫の妃として相応しくこの女神にその名がつけられたともいわれます。
 桜の女神コノハナノサクヤビメを娶り、石の女神イワナガヒメを娶らなかった天孫・ホノニニギの子孫の寿命は、木花――桜の如く儚くなってしまったといいます。
 コノハナノサクヤビメに代表されるように、桜は主に「若く美しい女性」と「儚さ」の象徴でした。
 『古今和歌集』以降も、桜を詠じた和歌には「散るのを惜しむ歌」が多いです。「散るは桜、匂うは梅」などという諺があるのも頷けます。
 在原業平とされる『伊勢物語』の主人公・「昔男」が詠じた歌として有名な、「世の中にたえて桜のなかりせば……」は、桜の花が散るのを惜しむ心情を表した歌です。桜は散る花であり、それは後に儚い命の象徴とも考えられるようになりました。余談ですが、桜を散らすのは「風」であり、風に「桜の花を散らすな」と呼びかける歌も存在しています。
 有名な『源氏物語』では、桜に喩えられているのは、女主人公である紫の上です。紫の上は作中最も理想的な女性として描かれており、それゆえ花の中で最高とされる「桜」に喩えられているのです。ちなみに、桜は女性だけでなく、若い男性に喩えられることもありました。
 また、桜は霊的な花でもありました。かつては戦さの跡地などに桜が植えられたようで、これは死者の怨念を桜が糧として成長し、その怨念を「花」として散らす――つまりは浄化する――と認識されていたからではないか、と考えられています。それが後の梶井基次郎『桜の樹の下に』や、坂口安吾『桜の森の満開の下』に見られるような、桜の美しさゆえの恐ろしさ、凄艶、神秘性――へと繋がっていったものと解することもできるでしょう。
 江戸時代には、「花は桜木、人は武士」という諺が出来ました。片や花のうちで最高のものを、片や身分で最高のものをいった諺ですが、ともに散り際の見事さをいった諺と解釈することもできます。散り際の美しさ、ということは、逆に言えばコノハナノサクヤビメの例のように、儚いものを象徴しているので、意匠としては多くても、実際に家紋――家の紋章であり、本来であれば家が栄える願いのこもった意匠を凝らすべきものである――として使われることは少なかったそうです。
 ちなみに、『伊勢物語』で昔男が詠じた、桜が散るのを惜しむ歌に対する反論として詠まれた歌は、「散ればこそ いとど桜はめでたけれ 憂き世に何か久しかるべき」でした。

桜の名所

 ついでに、日本の桜の名所を御紹介しておきます。

 ●三春滝桜(福島県)、●神代桜(山梨県)、●淡墨桜(岐阜県)、弘前城の桜(青森県)、高遠桜(長野県)、吉野桜(奈良県)。
 ●のついた三箇所の桜は「日本三大桜」です。

桜を詠じた和歌

 ●世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし(伊勢・八二)
 ●待てと言ふに散らでしとまるものならば何を桜に思ひまさまし(古今・春下)
 ●深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染めに咲け(古今・哀傷)

撫子のこと

 撫子は、秋の七草に数えられる花です。撫子の異称である「大和撫子」とは、日本女性の美称としても用いられています。
 この花は、その字義から、和歌などで「愛撫する子」=「撫でし子」とかけられます。『源氏物語』常夏の巻(常夏は、撫子の異称)で、光源氏が詠じた歌に

 撫子の常懐かしき色を見ばもとの垣根を人やたづねむ

があります。「常懐かしき(とこなつかしき)」は「いつまでも変わらず心ひかれる」の意で、ここでは「常夏(とこなつ)」にかけています。ここで光源氏が撫子になぞらえたのは、かつて光源氏が寵愛した夕顔の娘(夕顔と、光源氏の親友・頭の中将の間に生まれた子)玉鬘でした。玉鬘は光源氏が引き取って養育した娘ですが、後に光源氏に想いを寄せられるようになります。この歌でいう「もとの垣根」とは夕顔のことをいい、この歌は「撫子(=玉鬘)の容姿を見ると、もとの垣根(=母君である夕顔)のことを内大臣(かつての頭の中将)が探されるでしょう」という意味となります。ちなみに、玉鬘の母・夕顔は、頭の中将が「雨夜の品定め」で語った「常夏の女」でもあります。
 絵巻では、撫子が「闇」を表現するのに用いられることもあるそうです。闇を表現するには他に、灯火や月を描く方法がありますが、撫子は「撫でし子」から、「人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道にまどひぬるかな」(『後撰和歌集』)と関連づけられ、そこで「闇」を表現するのに用いられている可能性があるそうです(※)

 ※……講義を受けた段階では、研究中とのことでした。

樹木のこと

柳について

 柳は花ではありませんが、このページで一緒に取り上げてしまいます。
 柳を辞書で引いてみると、複合語が多くあるのに気付きます。「柳腰」「柳の眉(柳眉)」「柳髪」は容姿の形容で、多く女性に対して用いられるようです。「柳に風と受け流す」「柳に雪折れ無し」は、柳の性質を使って喩えるためのことばです。
 その他、柳といえば…… 幽霊と一緒に描かれることが、日本では多いようです。
 柳は水を好むので、よく川辺、橋のたもとに植えられました。「橋」は「あちら(彼岸)とこちら(此岸)を繋ぐもの」で、「境界」を表しています。日本の絵巻で橋が描かれていると、一緒に道祖神などが描かれていることがあります。道祖神もまた、境界を象徴するものでした。
 橋は境界を象徴し、そこから「あの世とこの世を繋ぐもの」という意味合いをも持っています。そこで、橋のたもとに植えられる柳にも、境界の意味が付与されました。柳の下に幽霊が立つのは、柳や橋が「あの世とこの世の境」の象徴であることからきているのではないかと考えられます。
 境界を意味するものとしては他に、先ほど紹介した道祖神や、階(きざはし)などがあります(※1)
 余談ですが、吉原の入口や、嶋原の入口には柳が植えられています。これも境界の象徴かも知れません(※2)。あるいは、「柳を折る」中国の風習に基づいているのかもしれません(※3)

 続きます。

※1……「きざはし」も「はし」と語源は同じ「端」であるとされます。その他、「はしご」「はしら」など、端と端とを結ぶことから、「何かと何かを結ぶもの」と「はし」とするようです。
※2……現在、遊女の勤めを意味する「苦界」はもとは「公界」のことではないかとされています。公界とはもとは公共の場のことを指しましたが、後に政治的支配下に入れられない聖なる場所(アジール。ギリシャ語で「不可侵」の意)、俗世界から切り離された場所をいうようになりました。寺院のほか、河原なども公界であったようです。それが更に下って、「公界」が「世間」を意味するようになり、遊郭などが「苦界」とされたのではないかともいわれますが、初期の遊郭は世間から切り離され、政治支配に組み入れ難い場所であり、「不可侵領域」であったとも考えられます。かつて「性」は「聖」なるもので、遊女はもとは「芸能者(神に芸を捧げる人)」であり、近現代とは性の捉え方が異なっていました。
 しかし時代が下ってもなお、吉原や嶋原は「別天地」のように捉えられていたということはできるでしょう。
※3……柳の枝はしなやかでもとに戻ることから、「帰る」意味で別れる人に柳の枝を折って贈るという風習が、中国にあったようです。遊里の入り口には花や柳を植えるのも中国の風俗で、所謂「花柳界」も遊里の入り口に花や柳が植えられたことから。

参考

 『広辞苑 第五版』岩波書店、『百科事典マイペディア』(日立システムアンドサービス)、五十嵐謙吉『歳時の文化事典』(八坂書房)